私という痕跡
2025.8 亀岡真由
2025.8 亀岡真由
いつのまにか、フローリングに髪の毛が落ちている。私はそれをため息をつきながら掃除する。それは毎日落ちていて、掃除してもその次の瞬間にはまた落ちている髪の毛を発見する。しかし、ついさっきまで、自分の頭についていて、ヘアケアをしてツヤを保ち、鏡の前でセットしたばかりの「美しい髪」だったものが、どうして掃除をしなければならないものに変わるのか。なぜ、ただ場所が変わっただけで、同じものでも全く別扱いになるのだろうか。
髪はその人の印象を左右する重要な要素だ。サラサラで艶のある髪は「清潔感」の象徴とされ、縮毛矯正やオイルケアに投資する人は少なくない。「髪は女の命」と謳われるほど、見た目における存在感が強い。私も、毎日ヘアオイルをつけたり、ちょっといいコンディショナーを買ったり、髪が少しでも美しく見えるように投資している。一方で、床に落ちた髪を私たちは「掃除すべきゴミ」として捉える。排水口に絡まった髪や、洗面台に残った毛はできれば見たくないし、掃除もしたくないと思ってしまう。それらは、もう、美しいものではなく排除すべきものである。はたして、この美と汚れの間にあるは本当に衛生観念だけで説明できるのだろうか。
鼻血、涙、唾液、汗、そして排泄物。これらはすべて「身体が生きている証拠」でありながら、こぼれた瞬間、私たちはそれを「汚いもの」「不快なもの」として認識しがちだ。身体の自然な反応や働きであるにもかかわらず、何か制御できていない状態であると感じた瞬間から、社会はこれらを「汚れ」として処理するよう命じる。これは単なる衛生観念ではなく、「身体は完璧に管理されなければならない」という価値観が無意識の前提として存在しており、それを守ろうとしているのではないだろうか。
そんな時、私はふと思い出した。赤ちゃんとうんちの話だった。昔読んだエッセイで、赤ちゃんが自分のうんちを触ろうとしている、母親が赤ちゃんがうんちを触る前にオムツを交換すると残念そうな顔をする、という場面があった。赤ちゃんがうんちに興味を示すのは、うんちが自分で生み出せる唯一のものだかららしい。
精神分析の創始者フロイトが理論化した「肛門期」の考えでは、1~3歳の幼児が排泄を「自己のコントロール」の一部と捉え、「出す/出さない」の行為が主体性・自己肯定感の芽生えに関わると説明されている。私は、うんちをただ「汚いもの」として見ており、それを処理対象でしかないと思っていた。しかし、赤ちゃんの立場から見れば、それは自分が自ら生み出した「最初の所有物」であり、誰かに見せ、自分の存在を知ってもらいたいという行動にもつながっている。
けれど、大人になるとそのまなざしは失われていく。私たちは成長の中でそれを「汚いもの」として教え込まれる。「汚いから隠しなさい」「我慢しなさい」「人前ではやめなさい」と大人は子どもに教え込む。確かに、排泄物などで感染症にかかるリスクはある。大腸菌やO-157などの病原菌を防ぐために排泄物を速やかに処理し、手を洗う習慣や、公共トイレの清掃・消毒は必要だ。社会が「汚い」と教えるのは、身体的・衛生的な意味がある必要なものでもある。
ただしその一方で、それによって「身体の自然な働きへの抵抗」や「身体から何かがこぼれる=穢れ」という図式が、無意識にインストールされていくのも事実だ。赤ちゃんが自分のうんちに興味を持ち、それを「誇らしげに見つめる」のに対し、私たち大人は「汚いからやめなさい」と強く否定する。その反応は、単なる衛生教育の一環というだけでなく、私たちが成長する過程で「自分の身体を社会の目に合わせて管理すること」を教え込まれてきた証でもある。そうして、身体の自然なこぼれや感情を公の場で出すことを恥とし、「管理できる身体」こそが正しいとされる社会に順応すること、それがいわゆる「文明人」となる第一歩なのかもしれない。ここで言う「文明人」とは、自分の欲望や衝動、身体のこぼれを抑制し、「社会に適した身体」を演じることを身につけた人のことだ。私たちはその過程で「排泄物=汚いもの」「抜け毛=掃除すべきもの」と、身体から自然にこぼれるものすべてにネガティブなレッテルを貼るようになったのではないだろうか。
文化人類学者、メアリ・ダグラスによれば、文化や社会は物を分類・整理し、その秩序を守るために「異物」や「境界線を超えたもの」を拒絶する。「混乱」や「曖昧さ」に対する恐れこそが、穢れの根底にあると彼女は言う。この考えを参考に髪の毛について考える。髪は頭にある限り、清潔で整った印象を与えるが、床に落ちるとただのゴミであり、洗面所に落ちたときなどは、視界からすぐ取り去りたくなる存在になる。それは髪そのものが変質したのではなく、「あるべき場所」から外れたために、身体=秩序から逸脱した「異物」となったからだ。排泄物も似た構造を持つ。排泄は本来、生理的で自然な行為だが、それが身体の外に出た瞬間、文化はそれを「穢れ」として処理させる仕組みができている。それは、「身体は秩序の内部でのみ美しい・正常である」とする価値観の裏返しでもある。そして同時に、制御不能な身体に対する本能的恐怖を、文化があらかじめ織り込んでいるともいえる。
しかし、違う見方もできるのではないかと私は思う。こぼれた髪も、赤ちゃんのうんちも、どちらも決してただ「汚れ」や「ゴミ」ではない。むしろそれは、「ここに生きていた私の痕跡」ではないだろうか。掃除後にひと呼吸おいて「これは私が滲み出たものかもしれない」と思い直すことで、私は自分の身体をより肯定的に受け止めることができる気がする。赤ちゃんのうんちをただ慌てて拭き取ってきた私たちの行為には、無意識のうちに「死」や「老い」など、人間にとって避け難い「身体の限界」で、「汚れ忌避」と結びつくものに近づく自分を突きつけられることへの恐れがあるように思えてならない。だからこそ、それを見ない、処理する態度自体が、文化の中で「汚れを遠ざけることが正しい」とされてきた歴史の中で育まれてきたのかもしれない。
これからも私は髪の毛を掃除し続けるだろう。でも、その後にふと思いたい、「これは私の痕跡ではないだろうか?」と。赤ちゃんのうんちも、髪の毛も、涙もすべて、身体からこぼれたものは、命の記録であり、私という存在の証明であると。それらは、制御できなかったり、時に恥ずかしかったりするけれど、それこそが、“私”なのだから。もちろん、落ちた髪の毛や排泄物を愛でる必要なんてない。けれど、それらを単なる「穢れ」として慌てて捨て去る前に、「これは私の一部だった」「私が今ここで生きているからこそ、出てきたものだ」と一度見つめ直してみるだけで、自分自身の身体や生そのものを、ほんの少し肯定的に受け止めることができるような気がする。それは、「社会が決めた綺麗/汚い」に振り回されずに、自分の感じ方を問い直す小さな試みでもある。自分の身体が動いていたこと、その一瞬があったことを確かめること。それが、「私の痕跡」を丁寧に見つめるということなのかもしれない。見たくないものの中に、自分の痕跡としての意味を見つけることは、生きていることを自分で確かめる行為でもあるのだと私は考える。「これは私の痕跡かもしれない」と思いながら落ちた髪を見つめるとき、私は少しだけ、自分を慈しむことができる。うまくいかなかった日も、誰かに否定された夜も、私はたしかに生きていて、身体を動かし、何かを食べ、感じて、そしてこぼれ落ちていった。その小さな痕跡を見逃さずにいられることは、「自分を大切にする」最も素朴で静かなかたちかもしれない。
【参考文献】
フロイト・ジークムント(2009)、渡邉俊之ら訳、『フロイト全集6』、岩波書店
ダグラス・メアリ(2009)、塚本利明訳、『汚穢と禁忌』、筑摩書房