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仕事場には絵を描くスペースもある.
【書くことは代弁するということ】
酒井:身体変容のところや、汚いものや匂いのことを書いているときは、特に楽しかったりするんでしょうか。
吉村:楽しいかどうかよくわからないけど、五感に響くようなことを書いている時は、「少なくともここだけは本当のことをおれは書いている」と感じますね。観念的な愛のようなものじゃなく、くせえものを書いている時は、嘘がないというか。そのときは筆は充実してると思いますね。
酒井:生き生きとするというか。
吉村:生き生きしていると思いますね。地に足がついてるというのかな。
酒井:次から次へとイメージが湧いて筆が追いつかないみたいなところもあるんでしょうか。
吉村:筆が追いつかないというか、言葉って、そのものズバリを言い当てられないんですよね。不立文字っていう感じで。ピアノの鍵盤もドとレの間には無数の音があるはずなのに、その間は表現できないじゃないですか。言葉も一緒です。でも言葉は、指し示すことはできるんですよね。だから矢印やと思ってますね。その矢印の先にあるのを見たり聞いたり書いたりするのは読者。だって、言い当てた途端に真理って逃げていきますやんか。禅の教えですけど。
酒井:矢印をいくつか組み合わせている中で、言葉にする前には見えなかったものが浮かぶことはあるんでしょうか。
吉村:どうだろうな。関係するかもしれないのは、「ボラード病」(2014, 文藝春秋)っていう小説を書いた時のことですね。この作品は東日本大震災がヒントになってるんですけど、あるとんでもない事故が起こって、明確には示していないんですが町の人々が全員奇形化するんです。海塚市っていう街なんですが。それをみんな、なかったことのように暮らしてるんですよね。そういう風にしてしか人間は生きていけないだろうと思うんですけど、でも、本当のみんなの姿が見えちゃっていて言葉にする女の子が主人公なんですよ。その主人公は排除されるんですけどね。
その「ボラード病」のなかで、主人公のお友達の女の子が死ぬんです。その葬式のシーンで、死んだ女の子のお父さんが海塚市の皆さんに挨拶して言うわけですね、「私の娘は海塚市の一部になったと考えてもよろしいですか、みなさん」と。そこを書いている時に、急にドワーッと涙が出てきた。ああいうことは初めてでしたね。
大きな災厄があった時、人は急に死ぬわけじゃないですか。そうやって亡くなった方って言いたいことが色々あったと思うんですよね。その無念さ、突然無にされてしまった無限の言葉が、そのときガーッて渦を巻いて空に昇っていった気がするんですよ。その渦巻きが言うに言われなかった言葉を託せる相手を探してるような気がして。たまたま僕は「お前が書け」と名指しされたような気がする。そうでないとあの涙はないと思ったんですよ。これは自分で書いているんじゃないなと感じました。そういうことは、それ一回きりですけどね。
物を書くってどういうことだろうとか、なぜみんな共通の言葉を持っているのかとか、いろいろ考えたとき、代わりに書くことはできるんだなって思いましたね。それは小説に限らず、あらゆるアートでも、学問でもそうやと思うんですよ。何のために一人の人間が研究し、文字を書いているのかといえば、やっぱり代弁できるということが大きいと思う。
酒井:託宣を受けるような。確かに人類学も、巫女とかシャーマンのような役割だと言われることがあります。
吉村:人類学者も中に入っていってますもんね。一緒に暮らしたり。
酒井:そうなんですよ。でも、日常生活を書くって意外と厄介なんですよね。書いても書いても書ききれない。さっきの「言葉はそのものを指し示せない」とか、真理が逃げてしまうというお話と関連すると思いますけども。人々の生活の内部に入っていっているのに、記述の言葉はどうも美化したような、でなければ型にはまった表現になりがちなんです。実際の日常生活はもっと猥雑だったよなっていうのは、自分が書いたものを見ていつも感じますね。もっとごちゃごちゃ色々とつながっていたのに、言葉にすると美しさとか、醜さだとか、猥褻だとか、すでに決まった意味のカテゴリーの中に入ってしまう。そこから自由な言葉がなかなか見つけられないというか。吉村さんは、あまり言葉にされていない人間経験を書いていると思うんですが、同じように感じることはないですか。
吉村:ハコに入れて分類しちゃうと面白くないよね。言葉ってそもそも世界を分節化するものじゃないですか。分節化して、整理して名づけて秩序だてるっていう。でもこの世界の実相は、本当はちがうものですよね。(座卓の上のエナジードリンクに触れながら)一つの物体をこういうふうに傾けただけで本当はまったくちがう情報になるはずなんですよ。ただ、いちいちの情報が入ってくるとものすごい情報量になって処理できない。だから、脳は情報をろ過して一つの恒常的な瓶というものとして理解している。ハコに入れると言っているのはそういうことね。ぼくが興味を持っているのは、そのハコを取っちゃったらどうなるんだろうかっていうことですね。
ハコを取り去って理解している人というのは精神病扱いされたり排除されたりしてしまう。でも汚穢っていうのはそのハコからはみ出た部分だと思うんですよね。ベタついてる、ネバネバしてる、整理できないもの。でも、そこにこの世の実相が透けて見える。同時に何かゾッとするもの、崇高なものと結びついているような気がする。そこら辺が面白いのであって、得た情報を全部ハコに入れるってことは、小説家のすることではない、と僕は思ってます。むしろ、この世の中で分類不能なものを集めてる。
たとえばうちの親父、もう死にましたけど、親父がすぐ隣の家に住んでたことがあるんです。あるとき2階の窓開けたらすぐ隣の家の窓も開いてて、そこに親父がいたんですよね。「おう」とか言って挨拶したんです。そのときは夕方で、部屋の電気が消えていて、そして親父は入れ歯をしてなかったんですよ。そしたら、「おう」って開いた親父の口の中が、もうこれは以上ないくらい、漆黒だったんですよ。真っ黒け。これ初めて見たわ、と思いましたね。分類不能なものとしていまだに記憶に残ってて。書くんやったらこれやな、みたいな。
散歩が好きで写真を撮りながら歩いたりもするんですけど、大体そういうものを集めてますね。
44年書きつづけて116冊目になった日記帳.
【文字のフォルムと意識の流れの断絶?】
酒井:作品はどんなプロセスでできていくんでしょうか。喫茶店に行ってアイディアノートを書く人もいれば、常に日記帳を書きためている人もいると思いますが。
吉村:どうなんかな。一番の動機は〆切ですけどね。とにかく無理やり出す。書かずにおられないから書くっていうタイプではなさそうで。ただ日記はずっとつけてますね。20歳の頃からつけてて今64歳ですから、44年間。これは絶対に何らかのものではあると思うんですよ。文学修行もしていないし、同人誌もやってない。結局、日記帳の中で自分の文体を練り上げたんですね。
酒井:毎日書くんですか? 手書きで?
吉村:毎日必ず手書きで書きますね。今これですね。116冊目。
酒井:すごい、本棚でも整然と一箇所に集まっているんですね。写真を撮らせていただいてもいいですか。
作品を書くときはどうですか。昔ながらの400字詰め原稿用紙にペンで?
吉村:それが理想なんですよ。作家っぽいでしょ。でも、字を書くのが好きなだけに、字書くだけで満足して作品の出来が二の次になっちゃうんですよね。とにかく何か出てくるまで手で書いたりもするんですけど、ほとんど使い物にはならないんですよ。たまに使える部分があったりするとワープロで清書することもありますけどね。酒井さんは原稿は何で書きはるんですか。
酒井:わたしはパソコンで書いてます。フィールドノートとかメモは手書きで取ることも多いんですけど、原稿はパソコンで書きます。
吉村:パソコンで書くと出来上がりがイメージしやすいんですよね。このへんで段落分けた方がいいな、とかパッと見開いたときにどういう段組になっているのか、とか。原稿用紙で書いていると全体像がよくわからないですよね。
でも、芥川賞の授賞式のときに選考委員の河野多惠子さんに、あなたはワープロで書いているでしょって言われて、分かりますかって言ったら「分かるわよ、文章滑ってるわよ、手書きは緊張感がちがうのよ」と言われて。いつかは手書きで原稿を書きたいなとは思ってるんですけどね。
酒井:これもある種の信仰みたいな論だと思うんですけど、手書きって、手や体の動きと、イメージしたり目に入る文字の形が全部一致してるっていうのは確かですよね。キーボードを打つときは物理的に全然別の運動をしているわけで。だから手書きの方が記憶に残るという説はありますね。
吉村:字の形についてですけれど、うちの妻は習字をするんですが、漢詩とか書くんですよね。「お前その漢詩の意味わかっているのか」と聞いたら、「全然わからへん、でもわからなくてもええねん、書道っていうのは」と。あ、そうなんやと思って。字を書くっていうのは絵を描くのと一緒で、一つのアートなんだなぁと思ってね。だとすると、アートとして文字を書くっていうことと、小説を書くことの間にこそ断絶があるような気がしてね。むしろワープロで書いてる方が意識の流れが断絶なく出てるような気もして。口述筆記に近いような。
酒井:文字が持つライン、フォルムの方に逆に持って行かれすぎちゃうって感じですか。
吉村:そうなんですよ、特にぼく字が好きやから、そっちに行っちゃうんですよね。そしたら結局、原稿用紙に何書いても楽しいんですよ。
酒井:(笑)でも何か、分かる気がしますね。小説って構成というか、構造を持ってますよね。でも、文字一つ一つが持つフォルムと小説の意味の構造とは全然関係がない。むしろワープロの方が意味の構造が見やすいという。
吉村:原稿用紙よりもね。そうなんですよ。でも、やっぱり手書きしたいんですよね。作家っぽいからというだけの理由ですけど。
以前、日本近代文学館が芥川賞150周年記念のイベントをやるというので、芥川賞受賞作の原稿を送ってくれないかと頼まれたことがあるんですよ。ワープロで書いているし原稿なんかありますかいなって答えたら、「いやいやでっち上げでいいんです」って。だから『ハリガネムシ』の冒頭部分をでっち上げて。でも、単なるでっち上げじゃ面白くないんで、全くちがう文章にして、線で消して絵も入れたりして、ふざけたの送ったんですよ。たまたま東京行ったときに日本近代文化館の展示会を見に行ったら、そんなふうにふざけていたのはぼくだけでしたね。あとはみんなきれいに書いていて、でも全部でっち上げでした。こんなことでいいのかと思いましたね。
要するに、作家の肉筆原稿っていうのが、もうこの世に存在してないんですよ。これは非常に由々しき事態ではないのか。たとえば大江健三郎は自分の肉筆原稿を東京大学に寄贈しましたけど、彼は全部手書きですから。ああいう財産が今はもう全くないんだ、と。作家の手書きの文字がないっていうことに危機意識を持っていますね。今もっとも作家の手書き文字が残っているものといえば、ゲラなんですよ。ゲラを出版社が保存しておくことの意味はすごく大きいんじゃないかと思って、それをことあるたびに言っています。
酒井:ああ、でもそうだと思います。思考の移り変わりがわかるし、最初のアイディアとその後の変化がどういう過程をたどったかが。
吉村:そうなんですよ。創作過程がわかる。僕は個人的にはできるだけ第1稿、第2稿、第3稿ってプリントアウトして置いておくようにはしてるんですけどね。
酒井:第1稿っていったときには一応、最初から最後まで小説の体をなしているものをさすんですか?
吉村:そういうわけでもないんですよ。最初の1章分をプリントアウトしておいて、次、第2章を書きますやんか。で、第1章に手直しが必要になってくると。そしたら1章を直したやつと、2章。それをまたプリントアウトしてっていうような形で結構プリントアウトはたくさんしますね。
酒井:ものを書くのは、たいてい夜ですか、昼ですか?
吉村:ほとんど夜ですね。明け方に寝るって感じ。昔は勤めていたので朝ちゃんと起きてたんですけど、勤めやめて目覚ましで起きる必要がなくなってからはだいたい夜方かなぁ。夜方になると便秘がちになるし、生活サイクルも今つやから、極力朝方に戻そうとするんですけど、人間のね、体内時計って25時間じゃないですか。だから1時間ずつずれていくんですよ。そいでまたもとの夜型に逆戻り。(笑)
酒井:でも昔教師をなさっていたのはすごいですよね。激務じゃないですか。
吉村:いや、激務やからこそですよ。教師だけやったら頭おかしなってたと思いますよ。書くことが格好の逃避場だったわけで。ぼくもいろいろ保護者に詰め寄られたりとか苦労があって、そんなときに「いやおれは教師じゃない、本業は作家なんだ」と思ってましたし、小説が書けないときは「いやおれは教師や」と。それでなんとか精神のバランスを保ってた感じで。
酒井:(笑)
吉村:実際ね、時間じゃないんですよ。お分かりだと思いますけど、原稿が書ける時って、時間がなくても書けちゃいますやんか。書ける状態になってるっていうことが一番大事で、あとはね、別に睡眠時間とか削ったらええだけの話で。一番困るのは暇はあるけど書けない。夏休みとかかえって書けないんですよ。
酒井:(笑)罪悪感だけが募っていく。
吉村:そう。だけど僕、2023年の10月7日、ハマスがイスラエルを攻撃した時以降ずっと小説が書けなかったんですよ。僕はデビュー以来、暴力をテーマに書いてきたんですけど、現実が自分の小説を完全に超えたと思ってしまったんですね。すると筆が凍りついちゃって何も書けなくなっちゃってっていうことがあって、1年半ぐらいは書いてなかったかな。その時はただ日記ばっかり書いてました。昔はみんな平和ボケしてるけど、本当は人間ってこうでしょ、みたいなスタンスで書いてたんですけど、今はもう、そういうスタンスで書けないですね。止まらなくなったジェットコースターに乗ってるみたいな感じがしますね。
で、このままではあかんということで雑誌の編集に言って短編特集に書くことになって、なんとか〆切守らなあかんからということで無理やり書きました。それで一応一つ書けたので、これからはちょっとずつ書いていこうかなとは思ってますけど。
酒井:ぜひ書いていただきたいです。これからも吉村さんの作品を読ませていただきながら、わたしも考えていきます。長い時間ありがとうございました。
仕事部屋の縁側付近に置かれていた絵。近所の路地だろうか.
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