素描

清濁併せ吞む

2022.3.5 奥田太郎



 

「汚穢」というものを言葉にするよう求められたとき、私が経路として手掛かりにする事柄はいくつか考えられるが、今回は、自分が関心をもって考察を続けている一つのトピックに絡めて、通常は「汚穢」として認識されなさそうだが「汚穢」という言葉でしか語り得ないように思われる事柄について記してみよう。

 たとえば、ネット上での言い争いを目にしたとき、互いに譲らぬ人たちの言説の中に、「潔癖」を感じることがよくある。そうした人たちは、途中で見解を違えるというよりも、言葉を交わし合うその初手から相手のことを自分に対して隔たりある者だとみなしているように見える。あたかも、互いに相手を「汚穢」とみなし、自身への侵入を必死に拒んでいるかのようだ。そしてまた、そうしたやりとりのありよう(言葉遣い、相手を排撃する応答のステップ、自陣とみなすものへのフォローの作法)は、話者の立場や性質を問わず、見事なまでに定型化されているように思える。参加している顔ぶれもトピックも時期も違っているのに、そこにはどこか既視感がある。その意味で、互いに相手を「汚穢」とみなすそうしたやり込めの手口は、かえって奇妙なまでに「清潔」で、淀みや濁り、汚れや穢れの気配(別の言い方をするなら、「ためらい」)がない。その様子は、汚染防止の完全防御服の着脱の順序と留意点が完全にマニュアル化され、それを厳格に遵守することで「汚穢」を自身から完全に締め出し除去する、という作法に重なって見える。そこでは、「汚穢」を遮断するにとどまらず、その遮断のプロセスそのものが「汚穢」とは無縁の「清潔」を湛えている。その徹底ぶりに「潔癖」を感じるのかもしれない。


 さて、私たちは通常、どちらかと言えば、正義を殊更に掲げる者の方に「潔癖」を見出しがちである。正義のヒーローは悪党に向かって、「許さぬ」と喝破する。汚く穢れた悪党を祓い清めるのが正義の鉄槌、というアングルで描かれた物語はジャンルを問わず枚挙に暇がない。いわゆる勧善懲悪ものに溜飲を下げつつも、そこに「潔癖」の匂いを嗅ぎつける者は少なくないだろう。それとは反転した構図で、正義のヒーローとされていた者が実は悪に手を染めており、その「偽善」を暴き出す類の物語もあるが、これもまた、正義を掲げる者には一点の「汚穢」も許さないという「潔癖」に牽引されている。事程左様に、私たちが日常的に接する正義の語りにはこの種の「潔癖」がべったりと付き纏っているため、それとは異なる視座から正義を論ずる可能性は、どうにも私たちの視界に入りにくいらしい。たとえば、ある場所にいるある人が、自分の暮らす集団や社会のなかでそれなりに尊重されながら、自分を取り巻く様々な人たちと何とか折り合いをつけて生きている様子を淡々と描き出す物語もまた、実は正義の物語たりうるのだが、なかなかそうはみなされない。

 正義論、つまり正義を論ずるとは元来、まったく異なるバックグラウンドとスタンドポイントをもつ者たちが、共在するための共通のプラットフォームを見つけようと様々な仕方で渡りを付ける試みそのものに他ならない。それは、もともとデコボコなものどもをなるべくデコボコなままで共に在らしめんとするための当座の共通の物差しを探し当てる作業なので、その行程は入り組み、ザラつき、一筋縄ではない。前に進んだり後ろに下がったりしながら、落とし所を見極めていく粘り強さが、正義論には求められる。正義を論ずるという面倒事を前に、さっさと片付けてしまいたい堪え性のない人も、早々に諦めてしまいたい無思考に傾きがちな人も、どちらも我が身を「清潔」にしておきたいという気持ちを強くもっているという点では同じである。換言すれば、彼らは思い通りにならぬ「汚穢」から距離を取ろうと躍起になっている。こうした人たちは、実は正義を論ずることからは程遠いところにいる。正義を論ずるとは、「汚穢」から自身を遠ざけることではなく、拭い去り難き「汚穢」とじっくり付き合っていくことだからだ。言うなれば、アンパンマンがアンパンチを繰り出すところにではなく、アンパンチを食らわされてもなお、ばいきんまんがあの共同体から消滅させられていないところにこそ、正義を論ずる足場がある。


 こうしたことを考えるうえで最も適しているトピックとして、内部告発を考えてみるとよいだろう。内部告発とは、ある組織の中に人知れず生じていた不正があることをその組織の外に向かって開示する行為のことである。不正が黙認されることを拒み、時に社会への甚大な被害を未然に防ぐことにもつながる内部告発は、細かいことを気にせずストレートに考えれば、組織の中の不正という「汚穢」を取り除いて当該組織を「清潔」なものとする「正義」の行為だと考えられるだろう。しかし、実際に内部告発が行われると、多くの場合、その組織の中で内部告発を行なった人物こそがむしろ「汚穢」とみなされてしまう。時に病理化し、時に職務怠慢と称して、組織の「清潔」を保つよう細心の注意が払われながら、「汚穢」(=内部告発者)が組織の中からできるだけ「きれいに」消えてなくなるよう丁寧に、丁寧に働きかける。その働きかけは、組織の「清潔」が保たれるように、徹頭徹尾「清潔」でなければならない。そうした組織の力学がそこで露わになる。他方、この力学の中で、内部告発者は、己に降りかかる「汚穢」の眼差しを振り払うかの如く、時に自ら組織を去り、時に自ら命を絶ち、時に孤高の闘いを続ける。内部告発が行われると、そこで本来直視されるべき不正という「汚穢」を上書きするように組織内に内部告発者という「汚穢」が認知され、そこに対して「潔癖」に駆動された様々な対応が生ずる、と言ってよいかもしれない。

そもそも内部告発者が「汚穢」とみなされるのは、内部告発によって開示されるのが、組織の中で人知れず生じていた不正だからだ。不正というのは誰しも抱えたくないものであり、自分からはなるべく遠ざけたいものであるはずなのに、人知れず生じて継続的に黙認されることが少なくとも可能になっているからこそ、内部告発が行われる。ということは、そこにある不正は「汚穢」であっても、その「汚穢」が組織の中に存在し続けていること自体は組織の「清潔」を破綻させていないということである。その状態が一定期間保たれると、皮肉にも、その「汚穢」を取り除くことの方が、組織の「清潔」を破綻させる要因になるというわけだ。そして、それを実行した者も組織にとっての「汚穢」となる。こうした事態は通常、「組織に対する裏切り」や「組織への忠誠心の欠如」として捉えられるが、そこには、同調圧や集団主義といったことでは語り尽くせない何かがあるように思われる。つまり、公益通報者保護法などで内部告発者をどれほど法的に保護しようとも、内部告発者の苦悩(そして、時に、それ以外の組織の成員の苦悩)がなくならないのは、そこに同調圧や集団主義とは区別されうる端的な「汚穢」と「潔癖」の契機が介在しているからではないか、ということである。

 さらに一歩進んで考えてみよう。多くの場合、内部告発を受けた組織が保たんとする「清潔」は、その組織が根を張る社会では不正と認定されるものであり、その社会の中では「汚穢」とみなされるので、組織の中でも(少なくとも表向きは)「汚穢」とみなされることになり、最終的に保持されることはない。そうすることで、社会の「清潔」が保持される。これは、組織の中で人知れず生じた不正が、社会の不正と一致している場合であり、その場合、内部告発者は、社会から「汚穢」を取り除き社会の「清潔」を保つことに貢献した者として表向きは讃えられる。表向きは、というのは、そうした内部告発者の位置づけは、内部告発をすることで一度組織の中の「汚穢」となった後にしかなされ得ないため、組織にとって内部告発者が「汚穢」であったという事実は組織の中に残り続けるからである。どれほど明白な不正を対象としていても、内部告発という行為を介した以上は、それを為した者は「汚穢」から逃れることはできない。

 では、組織の中で人知れず生じたものが、社会における現行主流の規範に照らして不正とは言えないが、それに接した者にとっては紛れもなく不正だと思われる、という場合はどうだろうか。この場合、内部告発に踏み切った者は、「汚穢」ならざるものを「汚穢」と言い立て組織と社会の「清潔」を穢すものとして「潔癖」的駆除の対象になるだろう。実際、誰かの名誉を失墜させるべく怪文書がばら撒かれるような事態は、その一例である。そうした行為に及んだ者は、虚妄を述べ立てる異常者として「汚穢」の扱いを受けるにちがいない。しかし、この者が告発した事柄は、現行主流の規範とは異なる規範に照らせば不正であり、そうした規範がやがて主流となる、という場合はどうだろうか。たとえば、様々なマイノリティの権利侵害は、昨今徐々にそれを不正とみなす規範が共有され始めてきたが、一昔前までは長らく不正とはみなされてこなかった。ただし、こうした物言いは後知恵によるものであることに注意しなければならない。一昔前にマイノリティの権利侵害を訴えた者は、その時点で、上記の如く異常者として「汚穢」の扱いを受けてきただろうし、社会の「潔癖」的駆除の対象になってきたであろう。そして、そのまま当時主流の規範が現在に至るまで延々と保持されることもあり得ただろう。まったく同じ構造のなかで、現在「汚穢」ならざるものを「汚穢」と言い立てたことで「汚穢」として「潔癖」的駆除の対象となっている者は、今ここにも、少なからず存在しているだろう。そうだとすれば、正義を論ずる上で私たちが目を向けるべきは、現行主流の規範のなかでの「清潔」ではなく、できることなら自分から遠ざけたい「汚穢」の方ではないのか。

 このように考えてみると、「清濁併せ吞む」という言葉の含蓄は存外に深い。この言葉が示す態度は、安直に引き受ければ、それが意味するところとは裏腹に、それ自体が自身の「清潔」を保つための口実にすぎないものともなる。正味の意味で「清濁併せ吞む」ことは、そう容易いことではない。おそらくは、ここまで考えてきたような「汚穢」に目を向ける理路を踏まえて正義を論ずること、すなわち、まったく異なるバックグラウンドとスタンドポイントをもつ者たちが、共在するための共通のプラットフォームを見つけようと様々な仕方で渡りを付ける試みに着手することで初めて、正味の意味で「清濁併せ吞む」実践が可能となる。

 清濁併せ吞む。それは、「汚穢」を介して、正義を論ずることと繋がっている。