第1素描

汚穢という現象、境界の倫理

2021.8.1 酒井朋子



はじめに:なぜ「きたないこと」から倫理を考えるのか

 この研究会は、「汚穢」「きたない」という概念、感覚、現象を掘り下げることによって、これまで光の当てられてこなかった倫理の次元を描くことをめざします。

 一般的にいって、「きたなさ」「よごれ」は人やものごとの表面・表層にかかわる事柄ととらえられています。ですから人の内部で展開する思考や感情あるいは内面的性質にかかわる道徳や倫理とは、相いれないように思えるかもしれません。けれどもわたしたちが日常的に使う言葉を考えてみると、たとえば公的立場にある人の不正な行いは「汚職」と呼ばれますし、犯罪行為の実行犯は「手を汚した」ともいわれます。「よさ」「行為の正しさ」をめぐる道徳や倫理の領域は、じつは「清潔/不潔」「きれい/みにくい」の概念と切り離せないのではないでしょうか。

 あるいは、いのちを尊重することにかかわって、なにが道徳的嫌悪を呼び起こすのでしょうか。「残酷さ」は一般的に、人や動物に必要以上の苦痛を与えることや、その痛みに無関心であることをさしますが、それだけではなくこの言葉は、血や臓器が多量にあらわになっているような「むごたらしい」状態をも連想させはしないでしょうか。もし「残酷さ」が「見難(みにく)さ」(目をおおわせるもの)の概念と重なっているとすれば、そのさまは汚穢と倫理の問題系のまじわりを示しているとも考えられるのです。

 本研究会で考えていく汚穢や汚穢忌避は、身体からの排出物、死、ごみ、汚染・感染に対するものから、社会秩序を成り立たせてきた力やしくみを明るみに出すような弱者やマイノリティの排外など、広い範囲のものを含みます。伝統的権威や構造の揺らぎは人々に解放をもたらしましたが、一方で、先の見えない社会不安をも増大させました。そのなかで自身の存在を意味づけようとして、人は他者の「汚穢化」と自己の「脱汚穢化」に依存するのではないでしょうか。だとすればそれらのおこないは、日常の、生活の、身体の次元にいかに根を張りめぐらせているのでしょうか。


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秩序からの逸脱としての汚穢

 本研究会の出発点のひとつは、人類学者メアリ・ダグラスが『汚穢と禁忌』(原著1966年)のなかで展開した理論です。ダグラスは、汚穢とは秩序を乱すもののことである、と位置づけました。何かが「きたない」とされるとき、それは往往にして「場違いなもの」であるというのです。食卓の上に置かれた靴、あるいは寝室に置かれた調理器具といった具合です。たとえば唾液は身体活動にとって必要不可欠なものであり、唾液の主の体内にあるかぎりにおいては存在も意識されず、「きたな」くもありません。ところが体表より外という「あるべきでない場所」に出た瞬間、「きたない」もの、避けるべきものとされるようになるのです。

 唾液の例で顕著なように、何かが「きたない」とされるのはそれが危険視されるからでもあります。血や体液、あるいは死にまつわる物事をできるだけ隔離しようとする信仰/習慣は世界各地で見られますが、これについては医療的機能に着目した説明もおこなわれてきました。つまり、近代医学が浸透していない社会において、汚穢忌避の慣習は病の感染拡大をふせぐ衛生上の機能を有していた、というのです。

 この論には一定の説得力があります。ただし他方で、「非科学的な象徴体系を信じ実践する人たち」と「科学的なわたしたち」を対比的にとらえるものでもあります。これに対してダグラスは、明確に否をつきつけます。細菌など病原性有機体についての知識が広まった社会においてもなお、「よごれ」とは象徴的な何かであり、その背後にはものごとのカテゴリー化(分類)にかかわる体系が存在しているのだ、と主張されます。


聖なる穢れ?ー有用性のまなざしを超えて

 さらにダグラスの論を特徴づけているのが、「聖なるもの」と「穢れたもの」の複雑な関係です。対極に位置するかに思えるこれらは、ともに「隔離されたもの」「伝染性のもの」という性質をもち、同様に扱われることも少なくなかったといいます。また、世界のさまざまな慣習に目を向けると、通常の分類から逸脱しているかにみえる動物や出来事を崇める儀礼が散見されます。たとえば中部アフリカのレレ族のあいだでは、鱗があるのに木に登り、爬虫類のような体型をしながら子に乳を与えるセンザンコウという動物に、多産と豊穣の象徴としての神聖な意味が与えられていました。「秩序からの逸脱」はしばしば生命や人間変容・社会変容の根源的契機として扱われているのです。人と人ならぬものがまじわることで王が生まれ「くに」が始まるとする異類婚姻譚も、同様の思想のあらわれとして理解できるでしょう。

 しかし、と、ここで疑問が残ります。「社会の発展」の予測の内部に閉じ込められ、その予想図にとって都合のよい部分のみ取り出されたもの。これはすでに、本来的な無秩序ではなく、汚穢でもないのではないでしょうか。有用性と予測可能性の枠をはみ出し、思いもよらぬ、無防備な領域に侵食し伝染してくる汚穢のありかた。もしかして、とらえなくてはならないのはそうした汚穢のありかたなのではないでしょうか。

 このことは汚穢を学術的に語ることの難しさとも関連しています。首尾一貫性(秩序の体系)に向かおうとする既存の学術言語は、汚穢の重要な何かを、どうしても取りこぼすのです。だとすれば、汚穢とはいかにして記述し、あつかうことができるのでしょう。この問題は、本研究会の大きな課題のひとつとなります。


伝染する危険と自己の脱汚穢化

 冒頭にも記したように、現代社会では人の行動や関係を規定していたさまざまな「伝統的」装置が失われ、S.バウマンが呼ぶところの「液状化」がいまなお進行し、人間関係、労働、生活様式にいたるまで、あらゆることが個人の選択と責任にゆだねられるようになっています。なおかつ一つの選択が長期の安定をもたらすわけでもありません。グローバルにうねる巨大資本と情報の前でむきだしにされた個人は、言ってみれば、「正しい」選択と努力を不断につづけねばならないような、しかし偶然性にも大きく左右されているような、きわめて難易度の高い致死性のゲームを生きているようなものです。このプレカリティ状態においては、同じ出自や属性の先達を見て「自分もこうなるのだろうか」と未来を思い描くことがもはや不可能となっています。

 過去20年間、さまざまな局面でモラルや倫理という言葉をきくようになったのは、そうした状況と無縁ではないのかもしれません。経済学、心理学、人類学をふくむ多くの学問領域で、いま倫理が新しく問いなおされています。一方、モラルという言葉は個人攻撃にも用いられています。「犯罪」や暴力の背景にある社会経済構造が問われることなく問題が個人化されたり、見えやすい記号−−−たとえば「外国人」−−−とともに問題の原因が特定集団に帰される様子は、道徳的汚穢の他者化、あるいは他者の汚穢化とも呼びうる現象です。

 汚穢とは伝染性のものです。したがって人は、危険をはらむ汚穢との「近さ」に恐怖を感じ、物理的・関係性的・カテゴリー的に距離をとろうとします。たとえば加害・被害をとわず「害」「問題」とのかかわりを帯びた人をタブー視し、その人とのつながりやその人からの影響を「なかったこと」にする。あるいは、特定の社会的属性を自分の「外」にあるものとし、そこに汚穢をかぶせることで自分から問題を切り離す。他者の汚穢化と表裏一体のものとして見えてくるのは、そうした「自己の脱汚穢化」への固執です。そこには、足場となる秩序の解体のなかで自分もいつ汚穢側に追いやられるかわからないと恐怖する、強迫的な不安があるのではないでしょうか。


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いくつもの主題が線を結ぶとき

  上述したように、汚穢は学術的な探求の難しい主題です。けれども、あるいはそれゆえに、この問題系とつながるにおいを、多様な日常的体験や、多くの主題から感じとることができます。

 たとえば「笑い」です。秩序だった文脈からのズレのなかに生まれ、また人の身体性に根ざすとされる笑い(ベルグソン)、あるいは理性を逸脱しつつも聖的なものともされる笑い(バタイユ)において、汚穢はどのように息づいているのでしょうか。

 またこの主題は、感染症への危機感の高まりの中で、いっそう重要性をも増しています。自然科学的知識の大衆化によって公衆衛生の次元における汚穢観念は衰退した印象がありますが、他者の身体を危険視するルールや感情を分析する汚穢論をより広い倫理の議論のなかに位置づけることは、身体経験が激変する現代において、喫緊の課題とも言えるでしょう。

 そしてこれまできびしく問われてもきたように、日本におけるケガレ観は、少なくとも近世後期以降、差別の仕組みと深く結びついてきました。そこでのケガレは時として、誰もが帯びうる(そして脱しうる)「状態」としてではなく、「身分」として、すなわち特定の職業集団や地域の人の固定的な地位として扱われました。うした構造と、汚穢の倫理をめぐる問いはいかにかかわるのでしょうか。

 本研究会では、上記をはじめとする多様な主題に人類学、倫理学、社会学、歴史学、地理学などさまざまなディシプリンから光を当て、汚穢という概念と現象や倫理とのかかわりを探究していきます。その核を明るみにさらし明晰な言葉で説明することは、あるいはできないかもしれません。中心に本質的な何かをもつような対象ではない可能性もあるからです。けれども複数の光点が星座の像をなすように、汚穢にふれるいくつもの主題を集めていったとき、そこになんらかのビジョン、なんらかの質感が浮かび上がるのではないかと思われるのです。