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『汚穢のリズム』の博多のブックイベントでお世話になった逆巻しとねさんにご紹介いただき、吉村萬壱さんにお会いできることになった。二人がお知り合いだと聞いてから、意を決して実際に紹介をお願いするまでに多少の時間が要った。最初に市立図書館で借りて読んだ『ハリガネムシ』(2003, 文藝春秋, 第129回芥川龍之介賞受賞)の憑かれたような攻撃性と、読んでいて手足と内臓が痛くなるような交わりの描写に、わたしは怖じけづいていた。また「クチュクチュバーン」(2001, 第92回文學界新人賞受賞)の、人体から何本もの脚が生え、その頭蓋を割って別の動物の頭があらわれ、肉体がたえまなく騒々しく別のものに変容していく世界も印象的だったが、作者がどのような人なのか想像がつかなかった。けれども記述のなかに時たま、不思議な観察の視線を感じた。暴力だとか欲望だとかの典型的な描写からは外れたところにある、空間や身体が脈絡なく見せる物質性に向けられた関心のようだった。それが面白くて、やはりお会いしてみたいと思った。
2025年3月、吉村さんの仕事場にうかがえることになった。瓦屋根の家々のあいだを細くうねった路地が走る、独特の風情の住宅街の一軒だ。お会いしてみれば吉村さんは、穏やかに、そして明快に話をされる方だった。壁を覆う本棚と畳に高く積み重なった本に囲まれ、座卓に向き合って、話を聞かせていただいた。
(聞き手:酒井朋子)
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吉村さんの仕事部屋。作品をあれこれ考える初期段階で特に周囲に本が必要という.
【ものを食べたり出したりするのは人間の基本】
酒井:汚いことやおぞましいことというのは、改めてお尋ねするのがおかしいぐらい吉村さんの作品にとって中心的なテーマかと思うんですけれども、どういうふうに感じてらっしゃるでしょうか。
吉村:創作にどのような関わりがあるかと。そうですねえ。たとえば高橋和巳という小説家を若い頃よく読んだんですが、この人の作品はすごい観念的なんですよ。この主人公は一体いつ飯食ったんやとか、いつ寝たのかとか、全然わからない。それが頭でっかちに思えて、これはちがうなと思って、そこらへんでしょうか。ぼくは高橋和巳の『悲の器』(1962, 河出書房新社)はすごい面白かったんですよ。でも何かが決定的に足りないなって思いましたね。その点、深澤七郎はドロドロしてて対極にある。観念的でSFっぽいんだけど、泥臭い。どっちかというとこちらだ、と思いましたね。安部公房もいいなと思いました。ものを食べたり出したりするのは人間の基本じゃないですか。そこはきっちり押さえつつ想像力を飛ばす、そんな風に書きたいなと、いつの頃からか思うようになりましたね。
酒井:食べることと出すことを中心的に書いていきたいという関心は、若い頃からあったんでしょうか。
吉村:ぼく子供の頃、お袋がものすごく清潔好きやったんですよ。そこにいますけどお袋が(酒井の背後に置かれた小さな台の上の位牌を指して)。だけど友達の家に遊びに行ったら、すごいガチャガチャしてておもろいなと思いました。自分の家はきれいに片づきすぎてて、その反動としてカオスというに対する憧れが生まれました。きれいなところにおっても何にも出てこないですよ。食べ物カスが落ちてたりとか、そういった方が面白いですよね。
酒井:思わぬところに意外なものがあったり。清潔すぎると何かが生まれてくる感覚がないというのはわかります。
吉村:よく考えたら人も、いろいろ外面を作ってますけど一皮剥いたらみんなぐちゃぐちゃですよね。食べて出すというのは、きれい事じゃないじゃないですか。人間がよそゆきの服を着て澄ましていても何も面白くないですけど、病気になって寝っころがって看病される状態になると、下の世話をしてもらったり、全然ちがう状況になるわけじゃないですか。
学生時代に、突然すごく眠くなったときがあって、でも都会って眠るところがないんですよ。もう仕方がないから百貨店の便所の個室の床に身を横たえて寝ました。ふっと起きたら便器を抱くようにして寝ていたんですが、ドアの下の隙間からハイヒールが見えるんです。どうも寝ぼけて女子便所に入って寝ていたみたいで、慌てて脱出したんですけど。
普段、ほとんどの人間は立って暮らして接し合っていますよね。でも本当は人間ってそれだけじゃない。人生の3分の1は寝ている。しかも年老いてくると体がダメになって寝たきりになったりもする。寝っころがっていたら自分でできないこともたくさんあるし、食べて出すという単純そうなことが、すごく大変になりますよね。そういったことを視野に入れたい。
『臣女』(2014, 徳間書店, 島清恋愛文学賞受賞)なんかはそうです。主人公の妻が身長5メートルにまで巨大化して、自分の体も取り回しできなくなって介護してもらわないといけない状態になるんですけど。あの作品はこの家で書いたんですね。それで「5メートルってどれくらいなんや」ってメジャーであちこち測ったんです。そしたら、すごいでかいんですよ。この家は天井まで3メートルしかないので家の中だともう立てないんです。そんなでかいものに食べさせなあかんし、出るものもすっごい大量に出るだろうから、これはただごとじゃないぞと思いましたね。
酒井:『臣女』のあの具体的なところ、面白かったです。部屋に入れなくて廊下に頭突き出す描写も出てきましたね。この家から着想を得たエピソードもあるんですね。
吉村:もう実際に5メートルの妻と一緒に暮らしている感覚でおりましたね。トイレにまず入れないんですよ。便座も結構ちっちゃいんです。だからもう浴槽の中に排便するしかない。ここは、トイレは汲み取り槽に溜まるんですけど、風呂の排水は全部外の溝に流れ出す原始的な構造になっています。風呂でウンチしたらそのまま溝に流れていってしまうので、近所の子供が騒ぐという。
酒井:ご近所トラブルになる話、ありました、ありました。
吉村:でも介護って多分そういう具体的なことだと思うんですよね。ここに寝られるか、起きられるか、糞尿の処理どうしよう、食べ物どうしようとか。それから介護のための時間を作るっていうことですね。
だから人間は観念的に、もしくは思想的に生きてるんじゃないというのはぼくのベースにあります。でも高橋和巳も面白いことを書いてるんですね。エッセイで痔の苦痛について書いていて、「苦痛は無意味である」と、つまり痔が痛いだけであらゆる思想はふっとぶと書いてるんですよね [1] 。高橋和巳がそれを書いていること自体がぼくにとっては意味深かったですね。
酒井:(笑)痔っていうのがまた。実際には痛みとして辛いはずなのに、他の深刻そうに見える病気と比べて何ら痛みに滑稽さはないのに、お尻に、つまり肛門にできる病気というだけで笑い事のように感じちゃう、意味づけちゃう、その悲しさもありますよね。
さっきの話ですが、具体的な介護の中身ってなかなか想像がつきにくいものでもあると思うんです。どこから発想を得ているんでしょうか。昔おばさんの介護を少しやられたことがあると書かれていましたが。
吉村:おばさんの介護もありますし、ぼく支援学校で働いていたので。支援学校でうんこ漏らしたりする子がおった時に、その子のパンツを脱がせて、中にこう、うんちが入っているわけですが、それを便器にポトンと落としてパンツを水道でもみ洗いする。そういうことをしていたので、耐性もあるし、何が起こるか、匂いとか手触りとか全部わかる。そのときの経験が活きていると思いますね。
酒井:一体何にどのくらい時間がかかるのかとか、書類があるのにそういうことをやらないといけないとか。
吉村:はいはい、そうです。おばさんはおしっこを尿瓶で取ってたんですね。病院にはおしっこを集める部屋があって、そこに尿瓶に溜まったおしっこを持っていってジャーって入れるんです。そのときの匂いとか、ジョボーっていう音とか、本当に五感すべての記憶に残ってますね。視覚的にもね。おしっこも見た目が全然ちがうんですよ。黄色いって言いますけど、金色に輝いたと思えば薄かったり、白濁してたり。体調によってもちがうし。匂いも、無臭に近い時もあれば強烈に匂う時もあるし、飲んでる薬にも関係するんやと思うんですけど。
酒井:出した直後のものと少し時間が経ったもので匂いも変わってくるんでしょうか。
吉村:うん。おしっこを集める部屋はなんかもう、みんなのおしっこ混じって匂いが沈殿してる感じでしたね。
【人間の考える愛とか友情とか絆の猥雑さと不純さ】
吉村:『ウィッチ』 [2]っていう魔女の映画があって、素晴らしい作品ですが、あれは主人公のお父さんが異常なほど厳格なクリスチャンなんですね。その中で主人公自身は救われない。最終的に魔女のサバトに参加することによって救われるっていう。ぼくの小説っていうのはちょっとそういう感じかもしれません。普通の状態では救われない魂があるんじゃないかということです。
酒井:なるほど。たとえば、「それはやってはダメ」という禁止が先にあるから逆に惹きつけられる、という引力ってありますよね。禁忌の侵犯というか。
吉村:禁止に対する反発みたいなね。
酒井:「不浄道」(所収:『ヤイトスエッド』講談社, 2009)なんかはそうかと思いました。極度に潔癖症な母親の存在があってこそ、主人公が逆にうんちにまみれたりとか風呂入らないとか、そういう方に向かっていきますよね。一方で、もっと即物的な、たとえばさっきの『臣女』の話にもあったような、単純に人間は常に食べて出していて、トイレにお尻がはまらないなら浴槽に出すしかない、みたいな現実的で物理的な汚穢への視点もある。吉村さんの文章や作品には両方が流れてる感じがします。
吉村:そうですね。思うのは、美しいものを積み上げて崇高なるものに至るかっていうと、多分それは無理なんじゃないかなということですね。本当に崇高なものに至るためには汚穢をくぐり抜けないと無理なんやと。汚穢による化学変化というか、跳躍力みたいなものが必要なんですよ。これはどこかで書いたと思いますけど、たとえばあるとき散歩していて、通りがかった工事現場の簡易トイレの扉を開けてみたんですね。その便所を覗きこんでみたら、うんちが山のように積み重なっていたわけですが、そこに宝石のような輝きがキラキラ輝いていた。ウジ虫なんですよ。ウジ虫が、扉を開けたことによって太陽の光を浴びてきらめいた。ものすごくきれいなんですよ。たくさんおって蠢いていて、神戸の夜景みたいでした。
ものすごい恐怖が美に通じるっていう考え方がありますでしょ、それと近いのかなと思ってみたりね。逆に言うと、人間の考える人類愛とか愛とか友情とか絆とかいったようなものは、どこか美しくないっていうか猥雑というか、不純物が混じってるような気がしないでもないんですよ。戦争や虐殺の大義は、決まって祖国愛や祖国の防衛ですし。
我々も一見平和に生きてますけど、本当たまたまやと思うんですよね。ロシアとウクライナの戦争とかイスラエルのガザ侵攻があって、世界は今こういう状態だし。我々の生活もちょっとしたことで壊れるだろうし、そうしたら世界は助けてくれないし、なんぼ叫んでも声は届かない状態になるだろうし。それこそ80年前は戦争してたわけですから。
酒井:「クチュクチュバーン」や「国営巨大浴場の午後」(1997, 第1回京都大学新聞社新人文学賞受賞)で書かれているのも、「助けて」という声が一切届かない極限的な暴力状態ではありますよね。面白いのが、人体が変わっていく様子の描写がすごく具体的なことで、どこがどういう風に裂けて何色の塊が出てきたかとか細かく書いてある。その一方で非現実感もあるんですよね。
吉村:非現実的なことを書くときほど具体的な描写がいるんですよ。でないと面白くない。当時はメタモルフォーゼのネタが結構あったような気がする。酒井さんも諸星大二郎のこと書いてましたけど、永井豪とか楳図かずおとか、「寄生獣」もです。連綿としてずっとあるネタですよね。人間が変態していく発想は自然と身についていたと思います。
酒井:なるほどね。あのあたりの描写は暴力的で痛そうで、破壊でもあるんですけど、同時に新しいものが生まれてもいますよね。「クチュクチュバーン」でも、変容のたびに新しい生き物に生まれ変わりますし。女の人がムカデ化したり、馬みたいな男の人が別な生き物になったり。
でも、徹底的な暴力状態やそこからの生成というのは極限的で非日常な世界であるわけですけど、一方で吉村さんの作品の多くはベタベタに日常的なところから成り立ってますよね。人が食べて出して体をどこかに横たえなくてはならないという現実味にまみれた、汗と垢の匂いがするところの中に、光が当たる世界が一瞬きらめくような感じなのかなと。
吉村: とにかく宇宙人が地球人を見た時にどう見えるかっていうのがぼくの視点なんですよね。それはデビュー以来変わっていないです。ファーブル昆虫記じゃないですけど、人間を見たとき、じつに面白い生物じゃないですか。人それぞれに祈りもあれば願いもあって、ぼくもすごく共感するんですが、かたや生物として見た場合、ほとんど病気に近い、完全に壊れちゃってる異常な生物やなというような気がして。そこはちゃんと書きたいと思っています。
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[1] 高橋和巳(1973)「苦痛について」『高橋和巳エッセイ集 現代の青春』旺文社文庫, p.185.
[2] ロバート・エガース監督「ウィッチ」(2017年, アメリカ合衆国・カナダ).
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