第8素描
言語の純化・浄化?
——ライプニッツのドイツ語改良論を手掛かりに——
2022.8.10 古田徹也
2022.8.10 古田徹也
絶えず変容を続ける自然言語は、よく生き物に喩えられる。その変容の内実としては、個々の言葉の意味変化や、文法の変化、新語の生成と消滅など、多様な側面を挙げることができるが、外国語の言葉の流入による語彙項目の変化や、それによる言葉同士の関係の変化といったものも、重要な要素に数え入れられることは確かだ。
人々の生活は言語とともにある。そして、人々は生活するうえで、自分たちの共同体の外側の人々と接触し、交流し、彼らの言語に触れるなかで、しばしばその言葉を取り入れる(あるいは、その言葉が感染する)。外国語は外来語として次第に自分たちの生活のなかに浸透し、やがては「国語化」するものも出てくる。このことは当然、どの自然言語に関しても見られる現象だが、言語の汚染――あるいは、乱れ、劣化、等々――として、この現象が批判的に捉えられるケースも多い。そしてこの点にも、現実の生き物をめぐる問題との類似性がうかがえる。つまり、外来種の流入と、それによる生態系の汚染、純粋な在来種の減少ないし絶滅といった事柄だ。
国語を純化ないし浄化しようとする運動は、古今東西、さまざまな言語をめぐって展開されてきた。フランス語、ドイツ語、トルコ語、ギリシア語、韓国語、等々。そして、この種の運動は多くの場合、ナショナリズムの興隆や、戦時の対外的な緊張などと結びついている。
たとえば、第二次世界大戦中のこの国においても、英語由来の外来語を「敵性語」ないし「敵国語」として排斥し、日本語を純化(浄化)しようとする運動が盛り上がった。当時、NHKは「アナウンサー」という言葉を廃止し、代わりに「放送員」という単語を用いるようになった。鉄道省は駅構内の英語表示を禁止し、「プラットホーム」の代わりに「乗車廊」、「ロータリー」の代わりに「円交路」と表示するようになった。日本野球連盟は、「ストライク」を「よし」や「正球」に、「アウト」を「ひけ」や「無為」に、「グローブ」や「ミット」を「手袋」に代えるなどの指導を行った。(大石五雄『英語を禁止せよ――知られざる戦時下の日本とアメリカ』、ごま書房。2007年、34-56頁)
しかし、すでに国語のなかに浸透し、その国の人々の生活に深く根を下ろしている外来語を、強引な仕方で引っこ抜いて、いわば「固有語」(あるいは、「在来語」、「従来語」、「旧来語」等々)に置き換えようとしても、人々はその単語をぎこちないかたちでしか使うことができない。また、そこでは、廃止された外来語が備えていた意味の奥行きや多面性、他の言葉との連関などが失われ、その分だけ国語の表現力が低下してしまうことにもなる。とはいえ、たとえば日本語に関して、いま現在のカタカナ語の氾濫とも言える状況を「日本語の表現力が向上している」とか「日本語がより豊かになっている」という風に評価してよいかどうかについては、意見が大いに分かれるところだろう。
西洋近代を代表する哲学者のひとりライプニッツ(1646-1716)は、「ドイツ語の鍛錬と改良に関する私見」(『ライプニッツの国語論』高田博行・渡辺学編訳、法政大学出版局、2006年、所収)などにおいて、ナショナリズムを背景にしたドイツ語の称揚と改革を訴えている。ただ、彼自身のなかにも、外来語をどう受け入れるべきか(あるいは、どう排除すべきか)という点に関して、議論に揺れ動きが見られる。
たとえば彼は、Philosoph(哲学者)やMathematiker(数学者)といった古代ギリシア語由来の単語に代えて、Liebhaber der Weißheit(英知を愛する者)やWiß-Künstler(英知学者)という単語を自身で用いたり、あるいは、そうした置き換えを提案したりしている(同43-44頁)。また、とりわけ道徳、感情の動き、日々の生活、行政、国家業務にかかわる単語については、外来語をドイツ語で置き換えることを考えるべきだと主張し(同47頁)、次のようにも述べている。
今や、ドイツにおいては災いがさらにひどくなり、〔ドイツ語と外国語の〕ごたまぜが恐ろしいほど蔓延したと思われる。例えば説教壇上の司祭、官庁の役人そして市民たちが、書くときも語るときも、自分たちのドイツ語を情けないフランス語で台なしにしている。したがって、もしこの状態が続き、これに対して何ら対抗策をとらないならば、……ドイツ語がドイツで失われてしまうことにほとんどなろうとしている。
われわれの由緒ある主幹言語かつ英雄言語であるドイツ語が、われわれの不注意から没落するようなことになれば、それは永遠の後悔と恥辱となろう。異国の言語を受容すると、概して自由が失われ異国による拘束を受けることになるのであるから、そのような事態になればほとんど何も良いことが期待できないであろう。(同50-51頁)
……これらの言語〔ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語など〕からの受容が、言語の純粋さという点からして得策で賢明なのかどうか、またどの程度そうなのか、ということが問われねばならない。というのも、余計な外来語のごたまぜからドイツ語を浄化することが、ドイツ語の純粋さを追求する際に重要となる事柄のひとつであるから。(同84頁)
しかし、同時に彼は、「どうしてもドイツ語で適切な単語と表現が見いだせないときには、適切な単語と表現であれば外国語であっても市民権を認めるべきである」(同48頁)と述べ、「言語についてピューリタンになるべきであるとか、使い勝手のよい単語を迷信的な恐怖心から外国語由来という理由で死刑に値するものかのように避けるべきであるという考え方を、私はもっていない」(同)と続けている。そして、「そのような考え方を採るならば、結局われわれは衰え弱り、われわれの表現の仕方から力が奪い去られる」(同)というのである。外来語に対するライプニッツのある種寛容な側面は、以下の一節によくあらわれていると言えるだろう。
……外来語の受け入れは節度をもって行われるのであるならば、変更するべきでもまたあまり批判しすぎるべきでもない。それどころか、優れた事物がその名称とともに新しく異国から入ってくるような場合にはとくに、賞賛するべきことですらある。(同53頁)
このようにライプニッツは、基本的には「余計な外来語のごたまぜからドイツ語を浄化すること」を目指し、「外来の単語は多すぎるよりは少なすぎるほうが良い」(同90頁)と主張しつつも、同時に、「〔外来語の氾濫という〕この災いが広がるのを一気にせき止めようとして、すでに市民権を得ている単語を含めすべての外来の単語を締め出そう」(同52頁)という、急進的な改革の方向性を批判してもいる。この点に関連して彼は、モンテーニュの養女であったドゥ・グルネ(1565-1645)が、当時のフランスの言語純化主義運動を批判して記した次の文章を引用している。
この人たち〔=言語純化主義者〕が書いたものは真水のスープのようなもので、不純物もなければ力ももたない。(同48頁)
外来語に対してライプニッツが向ける、こうした煮え切らないようにも映る態度は、純粋と不純、清浄と汚濁という対比一般が孕む問題をよく反映していると言えるだろう。
生き物の「在来種(さらには、固有種)」および「外来種」というものについて、実際には明確な定義がないのと同様、固有語(在来語)と外来語の境界自体、必ずしも明確なものではないし、それは、「国語」と「外国語」の境界などに関しても同様に当てはまる。
たとえばライプニッツは――そして、後の時代の言語学者ヤーコプ・グリム(1785-1863)なども――、Deutsch(ドイツ語)ということで、広くゲルマン語全般を指している。ライプニッツにとって、「英語、デンマーク語、スウェーデン語は故郷から押し流されたドイツ語の一部分」(同59頁 訳註47)として捉えられるものであった。また彼は、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人について、「まさに北ドイツ人とみなすことができる」(同66頁)と述べているほか、イギリス人について、「半分ドイツ人である」(同64頁)とも主張しているのである。
こうしたライプニッツの認識が法外なものだとして、では、「ドイツ語」とは果たしてどのように捉えるのが適当なのだろうか。「ドイツ人」についてはどうだろうか。そして、「日本語」とは?「日本人」とは?
一般に、何かを純化しよう、浄化しようという運動は、その「純粋なもの」とは何か、浄化されて残るものとはいったい何なのか、という問題をその背後で惹起し、ときに先鋭化させるものとなる。言語純化(浄化)運動は、この問題の恰好のサンプルだと言えるし、また、純化(浄化)の貫徹を目指すことがしばしば、その対象自体を痩せ衰えさせ、窒息させてしまいかねないということを示す、代表的な実例だとも言えるだろう。
ある程度の汚濁、ごった煮の猥雑さ、雑種性といったものは、各自然言語の生き生きとした豊かさや創造性といったものに欠かせない源泉である一方で、完全に交ざり合うならば、それぞれの言語の固有性や多様性も、その包摂といったものも、実質を失うことになる。本稿では、「言語の純化(浄化)」という観念を瞥見しつつ、清浄と汚濁のはざまについて考えること、はざまに自分の身を置くこと、その難しさを確認するに留めておきたい。