第3回研究会 開催概要
第3回の「汚穢と倫理」研究会は、石山徳子著『「犠牲区域」のアメリカ:核開発と先住 民族』(2020 年、岩波書店)の書評会をおこないました。第9回河合隼雄学芸賞を受賞したこの本では、 アメリカ先住民居住地が核実験や汚染物質廃棄によって深刻な汚染を受けてきた状況が、長年の調査にもとづき丹念に描かれます。レイシズムをめぐる関心の高まりのなかでなお根強く力を有 するセトラー・コロニアリズムや、特定の人種・民族集団の貧困の個人化・犯罪化など、重要な 問題をいくつも提起する著作です。
今回は著者である石山徳子さんにゲストとしてお越しいただき、執筆の背景や、読者とともに 議論したいことをお話いただきました。生活の場の「汚染」を、そして収奪構造の地理的・政治的な不可視化の問題を、どのように考えていくことができるのか、多くのことを考えさせられる内容となりました。
記
日時: 2021年10月23日(土) 14時〜
ゲストスピーカー:石山徳子さん
(『「犠牲区域」のアメリカ:核開発と先住民族』著者)
開催形式: ZOOM
プログラム
14:00 研究会開始 参加者自己紹介・ゲスト紹介
14:10 ゲスト石山徳子氏よりお話いただく
14:40 ディスカッション
15:40 休憩
15:50 ディスカッション再開
17:00 閉会
17:30 オンライン懇親会
※)本研究会は、サントリー文化財団 2021 年度研究助成「学問の未来を拓く」の資金援助を受けて開催されました。
(助成課題名「汚穢の倫理:ケガレの社会的・環境的次元、および倫理の身体的・日常的次元」)
第3回研究会レポート
今回の研究会では、政治地理学者である著者の石山徳子氏をゲストスピーカーに迎え、「汚染」や「純粋化」というテーマが核開発とセトラー・コロニアリズムの歴史を背景としてアメリカの先住民族にどのように経験されてきたのかについて討論した。
研究会のはじめ40分ほどは、石山氏から著作の中核となるテーマについて話していただいた。セトラー・コロニアリズムに関しては、石山氏の先住民族の方々との出会いについて、そして先住民族が属する空間で引き起こされてきた、アメリカの核開発の歴史に刻まれている現在進行形の問題点について、説得力ある説明があった。マンハッタン計画の現場、ウラン鉱山、核兵器の実験場、放射性廃棄物の施設といった、核開発に関わる複数の空間のありかたとともに、先住民族の居留地に位置している(または近い)この空間の「犠牲」がどのようにアメリカの軍事開発と構造化された差別によって正当化されてきたかが説明された。特に、先住民族がアメリカの周縁に追い出され、様々な意味で「見えなくされている」空間の不可視化のプロセスが描写され、現代アメリカの多文化主義的な進歩的ディスコースにおいても、アメリカの土地はもともと白紙だったかように捉えられがちであり、先住民族の歴史が無視されていることが指摘された。発表の最後に石山氏は、著作で取り上げたテーマを「汚穢の倫理」に繋げ、土地や水が汚染(除染)されたことは何を意味するのか、先住民族をはじめ人の在り方が環境との関係性によって生じる文脈において、どのように「汚染」を理解すべきか、そして人種政治と「きたなさ」に関する問題は、以上の文脈の中ではどのように説明され得るのか、といった興味深い問題点を示唆してくださった。
石山氏の発表後のディスカッションでは、特に場所・空間という概念とともに汚染や構造的な差別を考察する上で、石山氏が指摘したテーマはどのような生産的なフレームとして用いることができるのか、などの点を掘り下げた活発な議論が行われた。その中で数人の参加者が注目したのは、汚染と時間性との関係性である。放射性物質について考えるためには、非常に長いスパンで、一人の人生では処理できない時間性について捉える必要性がある。石山氏は発表中で、高レベル放射性廃棄物の危険性を伝えるため何万年後も同じ土地に生存していようという覚悟を示す、ある先住民族の方の発言を紹介した。これに関し、汚染された土地に暮らす先住民族がどのように複数の時間性(放射性物質の半減期であれ、土地の変容であれ、民族の生存であれ)を経験し対応しなければならないのか、などの点をめぐって活発な討論がなされた。放射性廃棄物の貯蔵施設からの汚染物質の漏洩によって、多数の世代にわたる被害が引き起こされているにも関わらず、上記の発言には土地に対する信頼と畏怖の念が込められている。そのように先住民族の環境との関係性は、我々の理解とは異なる選択肢を生み出すことがあることを考えなければならない。核開発の受け入れによって、放射能によって汚染された環境がたしかに生じる。しかしそれは、ショッピングモールやスターバックスが出現し「白人の土地になってしまう」環境と比べれば、ある意味で手つかずの環境でもある。つまり、経済開発によって典型的なアメリカン・ハイストリートが先住民族の土地をのっとり、先住民文化を抹殺するような状況も、先住民の視点からみると、別の形での「汚染」として解釈できるのである。
このような異なる形の「汚染」は、それらがどのように歴史的に重層化され、実態に組み込まれているのかという問題にも繋がる。スカルバレーやデスバレーなどといった先住民族の土地の地名に含意されている暴力性は、隔離・不可視化・暴力の構造的な歴史によって空間がどのように形成され、区切りらてきたかを示唆している。地名の上書き、居留地の境界の引き直し、外来種の導入による生態系の変容などは(特に軍事・連邦政府の)権力の累積的な圧力を示しており、その結果として先住民族の空間は、物理的にも象徴的にも、見えにくく、汚染が許容されてしまう周縁に追い込まれている。しかし、侵害や不可視化のプロセスを説明しながらも、石山氏は、凄まじいジェノサイドの歴史をくぐり抜け、今も生き抜いて特定の土地に深く根付いている先住民の生き様についても強調した。居留地の創立の歴史は強制移動と密接に結びついており、先住民族は長期にわたる重層的な汚染・差別に耐えてもきた。このことは先住民族にとっての特定の景観の重要性、そしてそれとの持続的な関わり合いを物語っている。
ディスカッションのなかでは、土地や(人間以外の種をふくむ)多種との先住民族の関係性をロマンチックに捉える危険性についても参加者からコメントがあった。先住民族にとっての聖なるランドスケープや、伝統的な生業やスピリチュアリティなどが、環境やマルチ・スピーシーズ性に親和的なものとして美化して理解されがちな傾向があることにまつわるものである。石山氏は「すべてのリレーションズが適切であるというわけではない」というコメントでこの点について簡潔に表現し、過剰に美化した理解が生まれないように、さまざまな先住民や、そのストーリーに目をむけること、そこから複数の視点を得ていく重要性を指摘した。また、明確な危険があるにもかかわらず汚染された野生生物を消費し続けることが、不可視化に対する先住民族の抵抗の一つの手段として理解できる可能性についても示唆された。
最後に、セトラー・コロニアリズム、歴史的な不正、汚染された空間をめぐるディスカッションは正義、特に先住民族や環境正義運動に関しての議論へと発展した。このような正義運動においては、放射性物質が漏洩された土地の汚染であれ、先住民族の生業・ナラティブ・歴史をめぐるものであれ、「純粋化」が重要な問題点であると捉えられる。このような、空間や人の純粋化・自浄、そして正義運動との関わり合いが不可避的にかかえる矛盾や、そこにおける政治行動の(不)可能性についても指摘された。アメリカにおける人種政治と環境正義のランドスケープには土地に対する個別の関係性を持った、差別の歴史を経験した他の集団、例えば奴隷農場での労働が景観に刻まれている。そのなかで、黒人と先住民族の正義運動のディスコースが完全に一致しない部分も出てくる。空間と正義の複雑な関係性について研究会の参加者から様々な事例も紹介され、多面的な議論へと発展した。
今回の研究会はオンラインで開催されたものの、フィールドや、先住民の方々のさまざまな人物像についての石山氏の鮮やかな描写は、物理的な空間に関わっている感覚を強く喚起させられた。アメリカ先住民族が経験してきた汚染の空間構成は、抽象的な構造過程の考察からだけではなく、実際に著者が目にしたもの、たとえば放射能で汚染された土地や水の危険性を警告する看板や、自分の土地で実験された核兵器が世界中で引き起こした苦しみを哀悼している人々の様子などからも伝わってくる。そうした記述には著者が感情ある一人の人間として人々と関わってきた経験が反映されていると感じられた。特に現在のように、なかなか人と関わりあうことができない状況の中では、間接的であれ現実のありように触れられる研究を通して、「汚穢」と「きたなさ」の多面的な意味について、更に掘り下げる貴重な討論になった。
(文責:Oscar Wrenn)