第2回研究会 開催概要
2021年6月12日
本格的に暑くなり、じめじめとした湿気も感じ始める今日このごろですが、みなさまお変わりなくご活躍のことかと思います。
さて「汚穢と倫理」第2回研究会が近づいてきました。今回は、哲学者の古田徹也さんをお呼びしてお話をお聞きします。『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』『はじめてのウィトゲンシュタイン』『言葉の魂の哲学』『不道徳的倫理学講義』など数々の著作のある古田さんに、日常言語と生活の哲学について、そして運と偶然性についてお話いただきます。
ルーティンに支えられ、生活やものごとの維持を目的とする「日常」の時空間は、秩序の概念と強く結びついています。いっぽうでそれはひとの身体性、およびものごとの物質性と切り離せない領域でもあり——食、衣服、睡眠、清潔さの維持——つねに「汚穢化」と隣り合わせであり、それゆえ汚穢忌避が休むことなく実践されている領域でもあります。
では、予測不可能なものである運や偶然性は、その日常とどのようにかかわってくるのでしょうか。一回性の、唯一的なものであるためにカテゴリー化が困難であるものを「出来事」と呼ぶとき、偶然性とともにある日常、すなわち「出来事性をもつ日常」の地平は、何を見せてくれるのでしょうか。
そうした関心にヒントを得る機会になるのではと思っています。
記
日時: 2021年7月3日(土) 14時〜
ゲストスピーカー:古田徹也さん
開催形式: ZOOM
※)本研究会はJSPS科研費 JP21K01082の助成を受けて開催されました。
研究会レポート
今回の研究会はZOOMによるオンライン開催となり、メンバー4名に加えて3名の参加があった。参加者それぞれが自分の研究関心などを紹介したあとに、ゲストの古田徹也さんに話題提供をしていただいた。
古田さんはまず、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治、集英社)の主人公、両津勘吉(=両さん)の名言の一つとしても知られる「入試、就職、結婚、みんなギャンブルみたいなもん」を紹介する。両さんは、軽薄で無責任であり、すぐに詐欺的な手口にうったえようとするような、不道徳性の権化のような人物である。しかし両さんがゴキブリとも重ねられるのは、単に彼が不潔であるからだけでなく、しぶとくハングリー精神に満ちているからでもあり、それがある種の人情ともつながってくる点におもしろさと魅力がある。
さて、こうした両さんの姿はひとつの誇張である。しかしそこには、哲学や宗教が長らく向かおうとしてきた理想的な賢者の世界と言語においては取りあつかわれないものを見ることもできる。「我々の生活における運の要素や、『両さん的』な要素を自分たちから切り離すべきだと見なすとき、我々は人間の生から自分たち自身を疎外していると言えるのではないか」、「少なくとも哲学は、運や『汚れ』という要素も含む日常に戻る言葉を紡ぎうるのではないか」。「ザラザラした大地へ戻れ」というウィトゲンシュタインの言葉を引用しつつ、現実の日常をあるがままに記述するということは、従来記述されてきた「日常」を超え出ていこうとする動きにもなりうる、と古田さんは続けていく。
話題提供の後のディスカッションでは多くの論点があがり、刺激的な議論となった。すべてを書き記すことはできないが、例をあげれば以下である。
運と汚穢の間の関連性。たとえば汚穢が危険なのは予測不可能であるためだが、予測不可能性は運を特徴づけるものでもある。秩序の外にある、あるいは実存という主題に深くかかわる問題である、などの点でも類似性がある。両者の関連を考えたい。
古田さんの著書『はじめてのウィトゲンシュタイン』でも議論されるBild(像)について、そのイメージとしてのありかたは図像的なものか言語的な何かなのか、また違ったものなのか。また、このBildが人の理解や思考にとって良くも悪くも不可欠であることについて。
常にわれわれの目の前にあるがゆえに注意されることのなかった事柄を「ありがまま」に記述しようというこころみは、哲学でこそ可能なものでは。
両さん的な下町にも、「きれいごと」とはまた違った、コミュニティの秩序や価値のようなものが見出されることがある。一方で、そうした秩序や価値あるいは共有のシンボルからも抜け落ちてしまうような、何気ない、容易に記述できない、けれども日々の暮らしにとって重要な領域というものがある。後者をいかに書いていくかという問題意識は今回の話とずれながらもつながってくる。また、フィールドであれ思考実験であれ、個別的な事例を通じて普遍的なものを考え、カテゴリーを豊かにしていくという面において、人類学と哲学には似通った部分もあるのでは。
哲学の起こり以前の古代的英雄の姿は、多少なりとも「両さん」的キャラクターと通ずるところがある。現代のわれわれの倫理、哲学とは別次元の、そのような「よさ」のありかた、倫理があるのではないか。
聖人的なものとは異なる人間的な偉大さとは、逆説的だが弱さやもろさにあらわれてくる部分がある。そうした偉大さは、古来より連綿と語り継がれてきており、現代でも必ずしも失われてはいないのでは。
運と宿命との差異が昨今は平準化され薄められたように感じる。一方で現代では何事も「リスク」の問題として語られるが、このリスク概念は運と宿命どちらも「引き受け可能」なものにしてしまう。自己決定できない、意志の外にある何かが責任の問題にされるさいの、翻訳、文法のズレのようなものがある。
今日の議論のなかで参加者がさまざまなタイミングで使ってきた「われわれ」の意味するものを考えてみたい。その集団性はどのように構築され、また個別のコンテクストと発話のなかでどのように揺れ動いているのか。
ひとつの論点が別の論点に光を当て、異なるように見えた関心が思わぬところで交錯するような有機的な議論の場となった。
(文責:酒井朋子)