回研究会 開催概要

【ねらいと目的】

  今回の集まりにおいて、研究会メンバーは、それぞれが自身にとっての「きたない」感覚や経験を掘り下げることを試みます。同時にそれらのうち、どのような部分が、なぜ外に出すことができないのか、表現できないのか、共有できないのかを考えてみます。第1回目の研究会は、それぞれの学的な知見と研究経験から汚穢を考える内容であったのに対し、今回の研究会では、メンバーおのおのの身体と生活の文脈からの考察を行なってみます。

  具体的には、メンバーはそれぞれ、自身にとっての「きたない」にかかわる素材(画像、動画、テキスト等)、および自身の「きたない」の外に出しがたさ、他者との共有しがたさについての考察を持ち寄ります。各自が発表したのちに、全体で内容について意見やコメントを交わしていきます。

  また今回は、グラフィック・レコーディング(グラフィック・ファシリテーション)の分野で活躍する出村沙代さん(株式会社たがやす取締役)をお呼びし、各メンバーの発表およびディスカッションの画像化もおこないます。言語のみによる整理や流れてゆく議論のなかで見えにくくなりがちなものに光を当てるねらいです。

  以上を通じ、本研究プロジェクトの限界、困難、および今後の取り組み可能な方向性を浮かび上がらせることが、今回の集まりの目的となります。



【開催概要】

日程: 1月5日(水)11:00- 

場所: 神戸大学文学部 C棟5F 部屋番号562


スケジュール:

 11:00- 今後の打ち合わせ

 12:00- お昼休憩+グラフィック・レコーディング準備

 13:00- 「きたなさ」の素材の持ち寄り。1人20分×5名

 14:40- 休憩

 15:00- ディスカッション

 16:30- グラフィック・レコーディング振り返り

 17:00- 終了


グラフィック・レコーディング:出村沙代氏(株式会社たがやす)



*)本研究会は、サントリー文化財団2021年度研究助成「学問の未来を拓く」の資金援助を受けて開催されました。

(助成課題名「汚穢の倫理:ケガレの社会的・環境的次元、および倫理の身体的・日常的次元」)

出村沙代さん(株式会社たがやす・取締役)には、「きたない」素材の持ち寄りパートから後半のディスカッションまで、内容を計10枚の模造紙に描いていただいた。上はそれらをまとめる全体グラフィック。

第4回研究会  内容報告にかえて

 今回の「きたない」の掘り下げワークショップにおいて、その準備の過程とワークショップ当日の話のなかで個人的に気づかされた点を、いくつか書きとめておきたい。

 このワークショップは、感じたことを、話の流れにまかせて思い思いに出してみる場であったので、ひとりひとり印象に残ることも感じることも違ったと思う。ひとまず以下は、わたし酒井が会の内容を反芻しつつ考えたことである。


・「きたない」をめぐる自分の無能力

 自分自身の日常生活を見渡してみたとき、まず感じたのは、わたしの「きたない」の感覚は、においや質感や湿度や、色・かたちなど「知覚できるもの」と切り離せないということだった。その知覚は、鳥肌が立つ、直視できない、表情がゆがむ、など身体に「起きてしまうこと」と結びついている。

 対象がわたしに向かって近づき侵入してくる危機感があるときにも、極端な嫌悪が起こりやすい。たとえば風呂場の排水溝の髪の毛にからまったヘドロを掃除するとき「きたない」と強く感じるのは、ヘドロが爪のなかに入りこむことへの嫌悪である。下着のなかに小さな蜘蛛が入りこんでいるのに気づいたときの恐怖は、その蜘蛛が内臓に入りこんでくるイメージとともにある。

 また、極度の嫌悪反応には、「気づいたら」「どうしようもなく」という側面がある。えづきが「うぇっ」と腹から喉まで駆け上がる、など。「吐き気(嫌悪)において含意されているのは、[…]否と言わないことができないという無能力である」(ヴィンフリート・メニングハウス『吐き気』p2)と通ずるもの。

 (けれども、これは道徳的/倫理的な「きたない」感覚においてはどうだろう?)


・「きたない」という社会化

 ただ、今回の集まりを通じて、再度確認したことがある。人は「世間一般ではこれはきたないとされている」ことを学習し、その知識を先行させて「きたない」「きれい」の判別をおこなう側面がある。このことはつねに強調しなくてはならない。

 自分の(自分の近しい相手の)垢や体臭は、もしかして、いつの時点からか「きたな」く感じられるように「なった」のではないか? あるいは「これはきたない」とどこかで自分に言い聞かせつづけているのでは? 「きたない」にまつわる情動や身体反応が意志を超えているように感じる––––そのことを、いかにして、「きたない」という忌避や排除の自然化(その政治性が見えなくされること)へとつなげないように書いていくか。

 人はある特定のものを「きたない」と感じるように社会化されていくのだし、その過程で「きたない」ものを生理的に感じる主体として形成され、統治の対象ともなっていく(たとえば清潔さを慣習づける近代国家のプロジェクトと、そこで起きる「きたない」(とされた)ものの排外、犯罪化)。

 では、「きたない」や汚穢忌避をいま考える上で重要なのは、この大きなしくみと関係しつつも、「きたない」感覚と反応にまつわる社会化、共有・共感・共同、そしてそこからの距離や脱落をめぐって、ひとつひとつの出来事や状況のなかで人に(人と人とのあいだに)何が起きているのかを、ミクロで細かなレベルで記述し考えていくことなのではないか。

(まだあいまいな記述にとどまっている)


・嫌悪の臨界をおたがいに手さぐりでなぞってみる

 たとえば何人かが集まって、嫌悪を感じるかもしれないぎりぎりの対象を話題にしあうとき、そこでは何がおこなわれていて、何が起こっているのだろうか。それはおたがいが何を、どんな状況を、「きたない」「無理」「許容できる」「扇情的」と感じるか、その輪郭を手でさぐっているような場ではないか。共感するもの・しないもののすりあわせであるかもしれないし、自分の内側にあってほかの人がもたない特異な部位をこっそりとたしかめる作業でもある。 

 けれども、そもそも集まった面々それぞれの感覚についてはどうでもよく、「『そのタブー/きたないもの』にふれる同じ場に・同じときに・いた」という、ただその既成事実を通じて共同性(共犯性)が構築される場合もある。ポルノメディアを集って見るという遊びは、この共犯性に強く関係していて、だからこそ性にかかわる集団の境界線をひくための踏み絵としてはたらく。さらには「共犯者になれ」という呼びかけに応じない者に対する強い排外につながる。


・「きたない」にまつわる攻撃の多様なベクトル、多層性

 そのほかにも、「きたない」をめぐる攻撃や排外の力は、多層的に、あちこちの方向にはたらきうる。

 もっとも直接的なものとして、たとえば誰かを「きたない」と名指すことは強い暴力性をともなうし、力関係をつくろうとする行為だ。それは傷つきやすい部位をねらった攻撃で、羞恥の感覚と結びついている。さらに、えてしてそれは、コンテクストによってはべつに「きたな」くなかったはずのものに、一方的に押される烙印だ。

 これとは別に、「きたない」ものごとをあえて「見える場」に持ち出すことによって、その場の人間に不快や羞恥を感じさせるという攻撃性もある。じつは今回のワークショップ準備でわたしはこれをおそれもした。汚物を他人に見せることへの素朴な躊躇である。ただしこれは社会的、政治的には、「きたない」の支配的価値基準(および、それとともにあるヒエラルキー)に対するカウンター的な批判行動として、効果的におこなわれてきたものでもあったと思う。

 

・「きたない」をめぐるつまらなさ

 すでに述べてきたように、「きたなさ」のイメージや素材を研究会に出して考察の対象にするためいろいろと考えをめぐらすなかで、いろいろな困難にぶちあたった。そのひとつが、自分の感覚が、とても当たり前でつまらないということである。

 便、目やに鼻水、吐瀉物、歯垢、食べ物が腐ったもの。

 あまりに凡庸で、話題にする必要もない。それについて話し合うことが無駄である。

 そんなふうに感じられたのだ。しかしこの感覚を掘り下げていく間に、思いついたことがあった。

 もしかして「きたない」ということは、「陳腐である」「使い古されている」「凡庸である」などの概念を含んでいるのではないか。徹底的に清潔であるもの、完璧に乱れていないものに出くわすことは、現実生活においてどちらかというとまれだ。リストの超絶技巧練習曲を一縷の乱れもなく演奏する弾き手は「まれにみるテクニックをもつ」と言われるだろうし、まったく濁りのない安全な飲用水はかつてはどこでも手に入るものではなかった。いっぽうで、わたしたちの居住空間に「生活感がある」というとき、それは日々の暮らしからいやおうなくにじみ出るよごれや乱れ(散らかり)が醸し出す雰囲気をいうのではないか。

  逆にいえば、「きたない」体験やその表現が「目をみはらせる」「ふつうでない」ものになった瞬間に、それはただ「きたない」だけのものではなくなるのではないだろうか。「きたない芸術」は、芸術であるかぎりにおいて、どこかしら「きたな」さを超越しているのではないか……


・畏怖か見下しか。いちじるしいものか見慣れたものか

 他方でワークショップのなかでは、畏怖の感覚こそが重要な論点ともなった。

 畏怖。これは凡庸さ、つまらなさとは、対極にある感覚だろう。たしかにそのとおりなのだ。汚穢の興味深さ、重要性は、それが「聖なるもの」と混淆し一体化しているところにある。だとすれば「きたない」ものを「とりあげる価値もなくつまらない」ものと考えるのは誤謬とも感じられる。

 では日々の「きたない」の体験は、そのすべてが畏怖とつながっているだろうか。

 思い悩んだうえで、いまの時点でのわたしの関心は、「きたない」ないし汚穢が「常軌を逸したいちじるしさ」と「ありふれていて見慣れた程度」の、両方にまたがっているという問題を、あらためて考えてみたい、というところにある。

 わたしたちの日常は、あるいは日常におけるわたしたちは、うっすらときたなく、うっすらとみにくい。この「うっすらと」という程度が、じつは考えるべき点なのかもしれない。


・「きたない」や類似する概念の腑分け的分析の危険

 最後に書いておきたいのは、隣接する概念、関係する概念と「きたない」を区分したり比較する考察がはらみやすい落とし穴である。「きたない」について考えるとき、ともすれば「その核となる部分は何か」「多様なケースのなかで共通して見られる要素は何か」といった方向に意識が向いてしまう。

 そしてこうした考察からは、発見がたしかに生まれる。たとえば、「清潔さ」が論理や一貫性と結びついているのにたいし、「きたなさ」は一貫性のなさ、予測不可能性と結びついている。あるいは、「みにくい」はこちらに対する浸透や伝染の危険は必ずしもないが、「きたない」にはそれがある、等。

 しかし、こうしたアプローチにはそもそもの限界がある。放棄するか、あるいは部分的なレベルにとどめておく必要がある。「きたない」は個々人の、社会状況の、そして出来事の文脈があってはじめて出てくるものであって(「抜けた歯」を、ある状況において「きたない」と感じた人が、同じように「抜けた歯」であるはずのものを、べつの状況ではまったくきたないと思わなかった、等)、そのことを本研究会のアプローチの基底に据えていかなければならないのだと思う。

(文責:酒井朋子 2022.1.22)