第7素描
だらしない(3)
2022.7.2 酒井朋子
2022.7.2 酒井朋子
人格、行為、嗜好にたいする嫌悪と吐き気
ところで吐き気や嫌悪といった感覚が、人の人格や行為、嗜好や欲望といった形のないものを評価するときにも頻繁に言及されるものであることは、嫌悪(吐き気)の研究史においても重要で、かつ厄介な問題であったように見受けられる。「道徳的嫌悪(吐き気)」などと呼ばれるものだ。先に書いたように、〈だらしない〉という言葉も人の性格や行動スタイルに対する非難の響きを帯びている。
嫌悪の語彙を排除すると道徳感情を日常的な言葉で語るのは難しくなる、とミラーは書く。たとえば愛に関する言葉は、嫌悪とくらべると道徳の領域と相性がよくないという。憎悪も同じだろう。「あいつのやったことには吐き気がする」と「わたしはあいつのやったことを憎んでいる」という二つの表現を比べてみると、そこには確かに差異がある。
考えてみれば不思議なことだ。嫌悪(吐き気)というものは、さわったり、匂いを嗅いだり、味わったりして感じられる即物的で身体的な感覚だと指摘されてきたことは、先にみた。
にもかかわらず——いや、だからこそ、なのだろう。「出来事の文脈や背景を知らなくとも、誰でも瞬間的にわかる」となんとなく認識されているから、議論の必要なく共有しうる感覚として、嫌悪や吐き気の表現が出てくるのだ。あるいはその表現は、ものごとのよしあしを感じとる原-人間的な感覚があり、そしてそれを自分が「まっとうに(きちんと)」持っている、という二重の声明でもあるのかもしれない。
いっぽうで、それが「まっとう」ではないと感じられる場合は危機的な状況をもまねくことになる。たとえばひどく膿んだ傷、病んだ状態、あらわになった内臓や骨などが嫌悪をしばしば引き起こすことにふれたが、そのように生命力が弱った状態の人や生き物に吐き気をもよおしている人がいたとすれば、その当の本人がひるがえって嫌悪の対象になりかねない。言い換えれば、何かを汚穢だと感じたそのときに、その人自身がもうひとつの汚穢へと転化していることがありうる。汚穢のもうひとつの伝染性であり、主客転倒性とも言えるものかもしれない。
いずれにせよ嫌悪(吐き気)というものは、人間の表皮をめくったその下の、傷つきやすい部位をあらわにする何かであるようだ。それがこの主題の考察を難しくする要因のひとつだとも思われる。
嫌悪を留保する第二の社会化段階
だらしなさ、きたなさ、嫌悪と吐き気をめぐる社会化には、もうひとつ忘れてはならない側面がある。幼少時に「これはきたないものなんだ」と学び、それを身体感覚および価値と言語の感覚に浸透させた時点で、その社会化は終わらない。
もう一つ、次の段階がある。
成長するにしたがって今度は逆に嫌悪を「免除する」能力を身につけるのではないか、それが社会化にとって重要な段階なのではないか、とミラーは書くのだ。学んだ感覚の留保といってもいい。ミラーの子は幼いころトイレに行くたび、おしっこが飛んだかもしれないと言って、自分のズボンを脱ぎたがってゆずらなかったのだという。これでは学校のような集団生活は送れない。「少しぐらいのきたなさ、だらしなさは大きな問題にはならない」という適当さと曖昧さのなかで、よごれや乱れをやり過ごすことができるようになって初めて、人は他者とともにある生活に適応する。
2016年に『汚穢と禁忌』の発刊50年を記念して編まれたPurity and Danger Nowという本のなかで、人類学者のファードンはダグラスの次の文章に注意をうながす。「純潔の規範が厳密に人生に適用されるときはいつでも、それはきわめて不快なものであるか、矛盾に到達するか、あるいは偽善にいたるかのいずれかである」 (『汚穢と禁忌』p365)。その上でファードンは続ける。この著作は、汚穢すなわち不浄と非-秩序とは〈危険なもの〉(危険視されているもの)である、と論じたものだと思われている。しかし本当にそうだろうか。いや、そうでもあるかもしれないが、それとともに、浄、純粋性、秩序の危険性をもまた論じたのではないか、と。
厳密な〈浄〉のなかに生活はなく生命もない。このことは実は、なんとなく広く了解されているのかもしれない——あるいは長い間了解されてきたのかもしれない。冒頭にふれた雑誌の特集「だらしない子」では、掲載された多くの文章で、一見だらしないと感じられるふるまいや癖を大目に見ることが大事だ、と書かれている。そして多くの著者が自身もまた「だらしない」部分を持っていたことを告白している。たとえば学校帰りに寄り道をして昆虫採集にいそしむことなど、時間をきっちり守ることよりも大事な子どもならではの好奇心があるのかもしれない……。
言い換えれば、「自分はだらしないです」と告白することはそれほど危険な行為ではないのだ。わたしがこの文章の冒頭において行ったように。
それが〈ある範囲〉に収まってさえいれば。
むしろ逆に、決してだらしなくできない人やだらしなさを徹底的にゆるさない人は、他人や集団となじめないことがあるのではないか。清潔さ、礼儀、誰かと結んだ約束、自分で決めたルール。いずれにおいても、その規範をとことん守ろうとしたとき、人は逆に距離をおかれやすく、極端なケースでは排除されていくのではないか。
そのダブル・スタンダードを理解しつつ、かすかに不気味なものを感じもする。
不快と嫌悪が後退するとき
当たり前のようだが一人の人はいろいろな領域をもち、重んじる規則も違う。
いわゆるドレスコードに無頓着で、いつでも「ゆるい」格好をしている人はだらしなく見えるかもしれないが、そういう人でも着るものの色や着心地に強いこだわりを持っていることがある。あるいはフィールドワーカーであれば、服だの日用品だの道具だのはほとんど片づけず整理もしないが、調査現場で目にした情報、フィールドノート、聞き取りのメモやデータ、写真などは、場所・時期・キーワードなどを細かく明確にしてあまさず分類している、という人もいる。時間にはだらしがないが、ものの貸し借りにはきちんとしている、という人ももちろんいる。
自分の知る秩序に則していない他人やものを見たとき、人は「だらしない」と思いがちだ。しかしそのだらしなさは、たんに無知と無関心の産物である場合がある。それも相手ではなく、自分の側の無知と無関心である。
その人のふるまいは自分の知らない〈律〉——秩序あるいは旋律——にそくした配置と行いであるかもしれないし、まだ形になってない、可視化していない〈律〉に向けた営為なのかもしれない。それは〈ちゃんと〉しすぎていることの過剰にも、場合によってはあてはまるのではないか。だらしなさと見えるものの影に動いているかもしれない〈律〉、あるいは行きすぎた無用なこだわりと見えるものが実は向かおうとしている場所、それらに意識を向け目をこらすとき、嫌悪と吐き気は消えないかもしれないが、当面の間、後ろにしりぞくかもしれない。
希望的観測にすぎるだろうか。
片づけの極意を友人に教わったときのことをもう一度思い返す。
そのときまでわたしは、「片づけ」に取り組むにあたり、たとえば鉛筆やメモ帳や定規やペンといった文房具を、同じ向きに、大きさ順に並べ、空いた隙間にぴったり収まるものを探し、そのすべてを可能な限り秩序だてようとしていた。
目の前の小さな物品の数々がわたしに実現可能な最高レベルで「整っている」つかのまの充実感と、少しずつ状況がそこへと向かっていく過程の感覚を、わたしは愛していたのだと思う。短いものから長いものへと整然と並んだ鉛筆の列を指でなぞったときの感触を、わたしは今も、人差し指と中指の腹に感じることができる。
それは、こまごまとしてすぐ散らばり、頻繁に出し入れする文房具と毎日継続的につきあっていくためのアプローチとしては、まったく適していなかった。引き出しや部屋はすぐに乱雑になり、いらいらし、「自分はホントだめだなあ」とあきらめた気分になる。精神衛生上よくないし、大事なものが見つからず生活に支障があるので、「もっとよい方法」をたしかにわたしは求めていた。そして友人が教えてくれた方法とは、ものがおさまる空間とサイズをめぐる秩序には関心を向けず、かわりに道具の使いやすさを重視した、適度なレベルの、長期的な維持が可能な秩序だった。
その後のわたしがどうなったかというと、いまでも片づけは苦手だ。友人が語った原理は実践できていないものの(そこが重要なのだが)たぶん理解はしており、なんとか身体化できないかとあれこれアプローチをつづけている。
けれども、あのわたしにとっての「片づけ」の作業も完全にやめたわけではない。というより気づくとそちらにシフトしているのだ。あのつかのまの充足感覚が、今もわたしをとらえている。