第7素描
だらしない(2)
2022.7.2 酒井朋子
2022.7.2 酒井朋子
不快と嫌悪と吐き気と死
だらしない、という言葉は不誠実さや軟弱さへの非難であるとともに、たしかに不快をめぐるものであることを最初にみた。
そこで少し、この不快というものについて、〈嫌悪(吐き気)〉についての研究を手がかりに考えてみたい。若干遠回りになるが、〈だらしない〉の問題とあちこちで関わってくるからだ。
ここでわたしが言っている嫌悪あるいは吐き気は、英語ではdisgust、フランス語でdégoût、ドイツ語でEkelとなるもので、気分を悪くさせるおぞましさにかかわる感覚である。日本語訳がなかなか難しい語でもある。
たとえば、うねった道を走る自動車に長いこと乗っていると気分が悪くなったり吐き気を覚えたりするが、この車酔いは平衡感覚をつかさどる内耳の神経系が混乱することによって起こるもので、disgustの研究史が問うてきた感覚や現象ではない。気持ちの悪さや吐き気が、何かとの遭遇によって引き起こされるのがdisgustである。
その遭遇の相手は、外部からやってくる場合も自分からにじみ出てくる場合もあるが、たとえば身体から排出・分泌される物体や匂いなど、〈不浄(impurity)〉や〈汚穢〉の言葉であらわされているものと大きく重なってくる。
もう少し解きほぐしてみよう。
『人間と動物における感情の表現』(原著1872)でダーウィンは、disgustはもっとも単純な意味においては「不快な味」であると書いている。味を意味するgustusに否定のdisがついた語なので、語源としてもそのとおりだ。
現象学者のA.コルナイは嫌悪(吐き気)をもよおすものの典型として「ぷるぷるするもの、ねばねばするもの」や「うっとうしくまとわりついてくるもの」をあげる(On Disgust, 原著1929)。悪臭もよく指摘される特徴だ。言われてみれば、見知らぬ物体が目の前にあったとき、無臭で表面がつるつるとして乾いたガラス状の立体よりも、糸をひいて悪臭をはなっているどろっとしたゲル状の物質のほうが、とっさに「さわりたくない」と感じるかもしれない。そして自身の身体への侵入の危険を感じさせるものに対しても強い嫌悪(吐き気)が生じることは多いだろう。鼻や耳など体の開口部から虫など他の生物が入り込んでくるイメージのおぞましさだ。
心理学では「嫌悪」と訳されることが多く、恐怖や軽蔑のような感情と比較されたりもする。ただしdisgustは憎しみや憎悪(hatred)とはズレるようにも思う。憎しみのほか嫉妬や罪悪感に特にあてはまることだが、これらの感情は、それまでのふるまいや蓄積してきた人間関係や情報などの文脈の上に生じることが多い。対照的に吐き気はものごとの背景についての解釈を(意識の上では)ともなわず、目に入ったもの、聞こえたもの、触れたもの、匂い、味、という感覚刺激から直接引き起こされると感じられることがある。そのため、渇きや痛みのような身体現象に近いとも論じられる。近年注目を集めるS.トムキンスの「情動理論」(1984)では、嫌悪は有毒なものを外に吐き出そうとする補助的な身体作動メカニズムとされている。
けれども、「キモい」という言葉——disgustingにかなり近い気がする——にも言えることだが、その感覚や忌避行動を「生理的」「脊髄反射」などと呼んでしまうと、操作的な言葉の使い方となる。つまり、そういう言葉を使うことにより、自分が「それ」を避け、いやがり、排除しようとするのはどうしようもないことで正当化されるという印象をつくりあげてしまう。それは現状「生理」「反射」などが、人間に普遍的で、価値や理性や社会関係といった変わりやすいものとは別の次元にあるかのようにとらえられているからだ。その普遍性や不変性がまったく前提にならないことは、たとえば清潔-不潔のにおいと質感にかかわる人間経験が時代や場所によって圧倒的に違ったことを考えれば明らかなのだが。
おそらくdisgustは、個人の意志や人格とは異なる次元で起きる身体反応であると同時に、意味と力の複雑な構造に深く関連した感情でもあるような、そんな何かなのではないか。
強調しておかなくてはならないのは、嫌悪(吐き気)をどのようなときにどのような対象に感じるかというのは、大前提としてケースバイケースであるということだ。人が百人いれば「きたない」「おぞましい」の感覚も経験も無数にある。さらにひとりの個人ですら状況が異なれば同じように見える対象に別の反応を示すことがある。
であれば、「嫌悪とは『本来』このようなものなのです」と、嫌悪の本質のようなものを主張することには注意が必要である。なにかをおぞましい、気持ちが悪いと感じている人に、「その対象は◯□△という基準を満たしていないのであなたの感覚は嫌悪ではありません」と言い放つのは、あきらかに愚かしいことだ。
ただ、その感覚と体験、感情について、いくつかの傾向が指摘されてきたのも事実である。もちろんそれらの傾向は時代と場所に応じてさまざまな揺らぎをとっていて、その揺らぎこそが肝要となる。嫌悪は忌避、隔離、そして排除と結びついてきた感覚であり、言葉である。これまでの歴史のなかで嫌悪が何に向けられる傾向にあったのか問うことを放棄してしまうと、忌避や隔離、および排除にまつわる公的な、あるいは微細で日常的な権力のはたらきを、批判的に問う道を閉ざしてしまうとも思われるのだ。
歴史家W.I.ミラーの『嫌悪の解剖学』(1997)によれば、嫌悪(吐き気)はどの学問分野においても、けして人気のある主題ではなかったという。どうあっても品よく扱うことができないからだろう、とミラーは書く。
退屈さや混乱について記述し考察する文章は、刺激的に(退屈ではなく)、理路整然と(混乱せず)書かれうる。しかし嫌悪は違う。嫌悪という反応がどのような遭遇によって生じたか、その中身を詳しく記述すればするほど、その文章そのものが、ひいてはその考察を行なっている本人が、吐き気をもよおす対象になっていってしまう。
汚穢にふれた人そのものが汚穢化する。素描1でもふれたように、奇妙な伝染性がまとわりついたトピックなのだ。
とはいえ、より重要と思われる主題の影で、嫌悪(吐き気)はほそぼそと言及され考察されてきた。それはひとつに、美や芸術など人間の生にとって重要な主題を考えたとき、嫌悪(吐き気)がそれらを逆側から照らし出すものとして浮かび上がってきたからだ、とW.メニングハウスはいう(『吐き気』原著1999)。たとえばメンデルスゾーン、レッシング、カントのような18世紀の美学者たちは、嫌悪(吐き気)を美と芸術とは根本的に相容れないものと考えた。嫌悪(吐き気)と結びついた嗅覚・味覚(ときに触覚)はいずれも、対象となるものを身体の内部にとりこんだり、対象に接触しないと生じない感覚だ。視覚や聴覚のように、対象から離れた状態で感じられ、それゆえ客観的な判断ができる感覚とはちがっている、と彼らは考えた。そしてまさに美と芸術の客観的基準をうちたてることこそが、その時代の美学者たちにとって重要だった。
このあたりはいろいろと興味深い議論があるが、今回は深入りしない。ひとつ確認すべきは、ヌスバウムも指摘したように、嫌悪の少なくとも一部分は、人が身体、それも死すべき身体から逃れえないことと交差してくることだ。嫌悪(吐き気)は死の恐怖と否認のあらわれということだろうか? 腐敗した肉や死体に対する忌避感はそうとも解釈できそうだ。
けれども、それだけではないという気がする。
唾や体液、化膿した傷、排泄、あらわになった胃や腸。これら不浄とされるものが突きつけてくるのは、ひとの生が、もっとも厳粛な瞬間においてさえ身体の原理から逃れえず、限りある物質性のなかで生きられていることではないか。
注意すべきは、嫌悪の対象となる〈不浄〉が死と関連するからといって、〈浄〉こそが生の領域、というわけではないということだ。むしろ逆で、身体的生は死とセットでしかありえず、そのため生と死はともに不浄の次元にある。嫌悪をもよおすあらゆるものから自由である浄は、生も死も超越した永遠性の次元にある。完全な浄のなかに生命は見いだされないのである。
唾液や体液や垢などは、そもそも生命活動に不可欠な分泌物が、体内での役目を終えたり、うっかりあふれたりして体表から外に出てくるものである。だらしなさは、嫌悪や汚穢のこの種のものととくに関係している。
髪や体毛の手入れ、掃除、身近な物品の整頓と情報の整理。生命活動と生活を続けているとつねにこぼれ、はみ出し、乱れてくるので継続的に〈なおし〉、〈整え〉なければならないが、それがうまくできないと〈だらしなく〉なる。
そこで浮上してくるのは、なぜ乱れてくるものを〈なおし〉て〈きちんと〉しなくてはならないのかという問いだ。これについて考えてゆくのは別の機会にゆずりたい。ひとまずここでは、〈きちんと〉しよう・させようとすることは抑圧や暴力にもなるが、身体をまもる清潔さや、人が緊張をといて休める場所と時間の確保にもかかわるということ、そして無数の種類がある法則や〈律〉のなかで、どれがどこに求められているかが重要だ、という2点だけ書いておきたい。
よごれや乱れに対する忌避感は、それを身につけることで人が社会的存在になっていくような、たしかにそんな感覚である。トイレトレーニング、手洗い、片づけ、衣服の交換などなど子どもに生活習慣を教えていく過程で、迷う人は多いのではないだろうか。どこまで、なぜ〈きちんと〉しなくてはならないのか。それは本当に無用な抑圧や暴力ではないのか。
そして教え込まれる側にとっても、「こういうものはきたないらしい、だらしないらしい」という社会知識を獲得はしたものの、いくつになってもその嫌悪と同一化できず、他人と一緒にいるときだけ白い目で見られないためにとりあえず忌避のそぶりを示しておく、というようなパフォーマンス性の高い忌避行動も多くある。わたしなど、とくにそれが多いのだ。