第7素描
だらしない(1)
2022.7.2 酒井朋子
2022.7.2 酒井朋子
ずるずるした毎日
幼い頃からひとつのことに集中して取り組むのが苦手だった。
ピアノの練習をしていても、30分、1時間、と決めた時間を座っていることができない。ツェルニーの練習曲にあわせるメトロノームをセットしようと椅子を立とうものなら、そのまま水を飲みに台所に行き、口さびしいので戸棚を開いてアメを探し、あきらめてトイレに行って、戻ってくると「ちょっとだけ」とソファの上に置いてあった漫画を読む。しかも何度も読んでセリフも覚えているような漫画をだ。しばらくしてやっとピアノの前にしぶしぶ戻る。そんな調子だから練習がいつまでも終わらない。もちろん親には注意されたが、毎日変わらずそんなことをやっていた。
今でも、ものごとを習慣化することが苦手で、忘れ物も多い。スケジュールやタスクの管理が下手なのは、たぶんいろいろな作業を同時並行的に気分の向くままに進めているからだ。わたしのある作業は、別の作業へとずるずる伸びてつながっている。
身だしなみにもそういうところがある。シャツのすそに近いボタンが一つ取れていても、「道ゆく人は気づかないだろう」と着てしまう。アイロンをかけるのも面倒くさい。手に取った白シャツにシワが寄っていても、それはみすぼらしさではなく「洗いざらし」の洒落感として許容される範囲だと自分に言い聞かせて着ている。
ただし、きれいな部屋にあこがれはある。だから「整理整頓のコツ」系の雑誌記事などを見つけるとすぐに手を出す。書いてあることはいつも同じだ。「ものの置き場所を決めましょう」。できたためしがないその習慣に、どの記事も行き着くことはうすうすわかっているのに、また「ずぼらでもできる整理術」を読んでいる。ASAPと書かれたメールが受信箱に溜まっていく。
ひとつ、よく覚えているエピソードがある。
大学生だったころ、いつもきちんと部屋が片づいている友人に「片づけのコツを教えて」と頼んだ。ふだんどんなふうに整理しているのかと聞かれ、答えて、目を丸くされた。
「それモノを出して戻してるだけだよ。整理してないよ!」
わたしが「片づけ」と称してやっていたのは、引き出しの中や戸棚のものを全部出して、それをぴったりと隙間なく、同じ方向に、乱れなく並べなおすというものだった。
その引き出しは使いやすいか、ものは出しやすいかと彼女はたずねた。奥に入っているものは出しにくいかもしれないとわたしは答えた。どういうものが奥に入っているのかと彼女はまた聞いた。そこの隙間にサイズがぴったり合ったものだ、と答えたように思う。そのときの友人の、感心したような表情を覚えている。
彼女によると「整理」というのは、使うものを用途や種類によって分類してそのありかをわかりやすくし、余分なものを捨て、よく使うものを取り出しやすい位置に移動することなのだという。隙間なくぴったりと空間を埋める必要は、まったくない。
なんと理にかなっているのだろう。わたしは感嘆した。まさに「開眼」の経験だった。20年以上たった今も、その日わたしたち二人がどこにどう座って会話していたかという情景が、ありありと頭に浮かぶ。幾度となく反芻してきたからだろう。
ただしその後に彼女の教えを実践できるようになったかといえば、これは話が別になる。
だらしないということ
長い間、なんとなく「自分はだらしないなあ」と思ってきた。
しかし考えてみれば〈だらしない〉とはいったいどういうことなのだろう。
コトバンク(https://kotobank.jp)を見てみる。小学館デジタル大辞泉の項目にはこうあった。
1)きちんとしていない。整っていない。「―・いかっこう」「床に―・く寝そべる」
2)節度がない。しまりがない。「お金に―・い人」「自分の子供のことになると全く―・い」
3)体力や気力がない。根性がない。「このくらいでへたばるなんて―・い」
もともとの語は〈しだらない〉で、江戸時代以降に〈だらしない〉へと変化していったという。
では〈だらしない〉の反対とされている〈きちんと〉している、とはどういうことなのか見てみると、「よくととのっていて、乱れたところのないさま」「正確な、また規則正しいさま」「すきまや過不足のないさま。ぴったり」などとある。
総合すると〈だらしない〉とは、不正確で、規則に沿っておらず、すきまがあいていて、軟弱な状態、ということになるだろうか。そしてそれは生活のなかでの身体のふるまいや服装など身の回りのモノとのかかわり方であると同時に、金銭やものごとへの態度に関することでもあるようだ。
上述の「片づけ」の例では、わたしは「ぴったり」と「すきまのない」状態を目指しはしたということになるが……。
英語ではどうか。三省堂ウィズダム和英辞典で「だらしない」をひくと、slovenly, sloppy, loose, immoral, carelessなどと出る。slovenly は片づいておらず乱雑であること。looseは知ってのとおり、ゆるいという意味だ。
slopはこぼすこと、あふれること。面白いところでは、sloppyという語には「感傷的すぎる」という意味もある。辞書には例文として「sloppy letters from a boy she had met on holiday」(休暇中に彼女が会った男の子から届いた湿っぽい手紙の数々)なんてものが挙げられている。ひどい例文だ。
訳のひとつにimmoral(不道徳)があるのも興味深い。そう、「だらしない」は道徳的非難をこめて使われることがある。なお、ここで言っている「道徳」は厳密なものではなくて、何か漠然とした「よい人」「悪い人」の評価を匂わせているというくらいの意味だ。部屋がきたなくてもシャツがしわだらけでも「悪行」ではないだろう。けれどもそうした身の回りのモノの「整っていなさ」が、不誠実だとか、他人に迷惑をかけているとか、正しさをつらぬけないといった評価にどこかでつながっている気がする。先の辞書定義でも「根性」への言及があったように。
だから、「自分はだらしないなあ」「よくないなあ」とぼんやりと思いつづけているのだ。
つれづれと〈だらしない〉にかかわる情報を見ていると、『児童心理』という雑誌の2011年10月号に「だらしのない子」と題された特集があるのを見つけた。自分のことを言われている気がしてぎょっとする。
そこではいったいどんな事柄が〈だらしない〉とされているのかを見ようと購入した。開いてみると、いくつかのふるまいの特徴について識者が考察する文章が連なっている。「忘れ物が多い」「時間やルールが守れない」「姿勢が悪い」「身だしなみが悪い」。姿勢が悪いと、背骨や目の健康を害することにつながる。学習用品が準備できないと授業についていけなくなる。不潔であることや、借りたものを返さないことは、友達をうまく作れないことにつながる、etc.
小さな子どもがいる場合、こういう視点が学校でも生活の場でも一定程度必要なのはわかる。しかし釈然としない。健康の問題はともかく、ここで重視されているのは「みんなのルール」を守り不快感を周囲に与えないこと、それによって集団のなかでの「つまずき」を減らして「能力」をスムースに伸ばしていくことのようだ。
先に見たように、〈だらしない〉という言葉は行動スタイルや性格にかかわる非難をふくんでいる。しかし、とがめられるべきは本当に不快感の対象となった側なのか。身だしなみのように時と場所に応じてルールが千差万別なものごとについて、〈きちんと〉していないからといって誰かを不快に感じ、あまつさえ排除しようとする、そちらのほうこそ誉められた行いではないではないか。
パリッとして気持ちのいい洗濯物
上にも見たように、〈だらしない〉は身だしなみや衣服の文脈でよく登場する形容らしい。最近、これに関係しそうな論文を読んだ。サラ・ピンクの「きたない洗濯物」(2005)である。
ピンクはデザイン人類学や感覚人類学のキーパーソンとして知られる人類学者だ。この論文では、現代イギリスに生きる人たちが、衣服やシーツなど身のまわりの布類を洗濯する・しないという判断や行動を、どのような感覚体験や判断とともに行っているのかを調査している。
ピンクによれば、イギリスでは20世紀前半まで、洗濯物を「清潔にする」ための方法として熱湯消毒が重視されていた。しかし洗濯洗剤の商品開発が進み、かつ生活環境全体が衛生的になったことにより、熱湯消毒はそれほど求められなくなる。すると見た目や触った感じや匂いなど、いろいろな感覚を総合した「きれいさ」が求められるようになってきた。なかでも重視されるようになったのが、洗剤の広告でも頻繁に目にするフレッシュさ(fresh, 新鮮で気持ちがいい)という表現、イメージ、感覚である。
たとえば家事にしっかり時間を費やす中流階級の女性マーガレットにとって、洗濯やベッドメイキングで衣服や部屋をフレッシュにすることは日常を形づくる重要なルーティンである。家のなかでも庭でガーデニングをしているときも化粧を欠かさないマーガレットは、柔軟剤で洗濯物をふんわりさせ、フレグランスをかけて「よい匂い」にする。
このフレッシュさの感覚にとっては、白さやしみのなさはもちろんだが、匂いや、ふわふわだったりしわがなくパリッとしている(crisp)質感、そしてその服がどういう素材でどういう状況で着られたかという知識も重要になっている。マーガレットは夫が短い時間着ただけのシャツをクローゼットに戻しているのを発見すると、取り出して洗濯する。たとえ1、2時間であっても1回そでを通すともう質感が失われるのだ。ドライクリーニングや手洗いのものなど毎回洗えない衣服の場合は、開いた窓の近くにハンガーでつるす。衣服に起きた「身体との接触」という出来事を、外の新鮮な空気で体臭もろともリセットするということだろうか。
なんとなくわかるような気もする。
ここにおいて「フレッシュさ」は、皮脂や汗や汚れのしみがついている・ついていないというだけの事柄には収斂しない。見た目、質感、匂い、背景知識などの全体をかんがみ、とても私的で個別的なかたちで、それぞれの衣服やクッションカバーやタオルの〈ちゃんとしている・していない〉が判断されている。
ピンクはこの洗濯をめぐる判断と行動は、道徳的な何かだ、という。この「道徳」が何を意味し、洗濯にまつわる感覚と実践を視野に入れてくることで道徳をいかに新しくとらえなおせるのかは、残念ながらほとんど説明されない。
しかし通常なら家事労働のせまい文脈で語られる〈洗濯〉という日々の営みが、自分や自分の周囲のモノにはたらきかけて〈律する〉ことをめぐる、広がりのある行いだということが、論文を通して伝わってくる。放っておけばすぐに何かが、どこかが折れ曲がり、はみ出し、もつれ、体臭や食品臭が漂ってくる。その〈乱れの侵入〉を不断にしりぞける。それは〈よごれや気持ち悪さをがまんできる・できない〉感覚から発する行動であると同時に、〈こうあるはずの、こうありたい自分と世界の関係〉への毎日のはたらきかけとも言える。
まさに、よごれと同時にだらしなさをめぐる営みではないか。
衣服にまつわる「パリッとしている」ことを含んだ「フレッシュさ」の感覚とそれを維持する日常行動が、自己と周辺環境を律していくはたらきかけでもある様子は、日本語での〈折り目正しい〉という言葉も思い起こさせる。これは態度や礼儀作法がきちんとしているという意味で、人の性格や行動スタイルを言いあらわす言葉だが、言うまでもなく、正しい手順で圧をかけてたたまれることでくっきり折目のついた服(とくに和服)のイメージと関連している。
さて、ピンクの論文には、もう成長して働いているマーガレットの娘ヘレンも登場する。ヘレンは身の回りをフレッシュに整えることが母親ほど得意でない。時たま自分の洗濯物を母親のところに持っていって、手洗いしてくれと頼む。
甘えているというか、だらしないというか。ただヘレンは、服やクッション、ベッドリネンを異なる素材ごとに吟味して手入れする母親を尊敬しつつ、母親の〈律〉とは異なる旋律をも発しているようだ。ピンクとの会話の中で、彼女は一度着たTシャツは乱れているように見えても、もう一度着てみると身体になじむのだ、と語る。
論文を読んでいたわたしは、まず「ああ、これは自分のずぼらさへの弁明と妥協かも」と思った。自分をヘレンに投影しすぎたのかもしれない。しかし同時に、「パリッとしている」けれども手が入りすぎて息の詰まる規律とは異なるような、自分なりのありかたで、肌にまとう衣服の感触を模索しようとする手さぐりをそこに感じもしたのだった。