第6回研究会 開催概要
第6回の「汚穢と倫理」研究会を7月29日に開催しました。今回は『分解の哲学』(青土社、2019年)、『ナチスのキッチン』(水声社、2012年)ほか多数の著作がある農業史家の藤原辰史さんをお呼びして議論を行いました。第41回サントリー学芸賞を受賞した『分解の哲学』は、遺棄されたもののなかに再生があるという事象を神秘化するのではなく、医学、生態学、社会科学などをふくむ物質的な観点からつきつめること、および事物が分裂・分解・崩壊する過程に目をこらすことの重要性について論じた名著です。本研究会の問題関心とも深く関連するものと考えます。
今回の研究会では、「汚穢の倫理」ウェブサイトの素描集(エッセイ集)について藤原さんにコメントをいただくとともに、『分解の哲学』をはじめとした藤原さんのお仕事について、メンバーとのあいだで対話を行いました。
記
日時: 2022年7月29日(金) 14時〜
ゲストスピーカー:藤原辰史さん
(京都大学、『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』著者)
形式: ZOOM
プログラム
14:00 研究会開始 参加者自己紹介
14:15 ゲスト藤原さんよりお話いただく
14:45 ディスカッション
15:15 休憩
15:25 ディスカッション再開
17:00 閉会
※)本研究会は、サントリー文化財団 2021 年度研究助成「学問の未来を拓く」の資金援助を受けて開催されました。
(助成課題名「汚穢の倫理:ケガレの社会的・環境的次元、および倫理の身体的・日常的次元」)
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第6回研究会レポート
第6回研究会は、農業史の藤原辰史さんをゲストスピーカーに迎え、本ウェブサイト連載のウェブ・エッセイ「汚穢をめぐる素描文章集」へのコメントをいただくとともに、藤原さんのご著書『分解の哲学―腐敗と発酵をめぐる思考』(2019、青土社)の書評会を行った。
最初に藤原さんから、素描文章集で扱ってきた雑草や害虫というトピックは、近代農業ならびに農芸化学産業の歴史と深くかかわる重要な主題であること、そして腐敗や発酵の匂い、体臭などは微生物の観点からも考えることができる面白いトピックである、とのコメントがあった。
その上で、今後研究会で考察を深められそうな事柄として以下の3点が指摘された。
第一に、「清潔さ」のなかにある異なる志向の可能性について。たとえばナチスドイツの収容所では、整理整頓、清潔さ、正直さなどが囚人たちに強制された。それは安い労働力として利用していた囚人たちを長く生きながらえさせ(サステイナブルに)管理するために、伝染病やシラミなどが蔓延するのを防ぐためのものだった。一方で、プリモ・レーヴィの文章のなかに書き留められているように、せっけんもなく汚水しかないような、伝染病対策に有効とはとても思えない条件下で、なお自分をきれいにしようとするふるまいを保ちつづける人がいた。それは人としての尊厳を守り、人として生きることとわかちがたく結びついている何かではないかと思われる。
第二に、においと微生物について。人間は老廃物、分泌物を撒き散らしながら生きており、それらを糧として生きる無数の微生物で生活空間が満たされている。そして身体に棲む微生物が発生させるにおいを通じて人をひきつけたり、コミュニケーションもおこなう。その面白さについて。
第三に、捨てられたものが人をひきつける引力を、いかに記述していくか。そしてその難しさと模索について。クルド・シュヴィッタース、ピカソ、最近では淀川テクニック氏のように、捨てられたものを組み合わせて芸術とするこころみがある。では自分たちは、捨てられたものや腐敗臭をただよわせるものについて、資本主義社会にとっての有用性とは違った文脈で、どのように書いていくことができるのか。それはとても慎重に、表現を鍛えながら進めていかなければならないことで、美的な領域での模索や探求にもかかわることではないか。
以上を受けて、活発にディスカッションが行われた。出てきた論点は、たとえば以下である。
「誰も価値を見出さないもの」というのがゴミの包括的な定義だと思う。一方で「きれい」に仕上げられたブリコラージュ作品は別様に価値を生み出しているとも言える。それはどこまで・どのような意味で汚穢と見なしうるものなのか。
クリステヴァは、セリーヌの作品「なし崩しの死」をアブジェクシオン(唾棄すべきもの)を示す作品として議論する。これは読者にはきけをもよおさせる描写が延々と続き、見たくない、ふれたくないという気持ちにさせるような作品だが、こうした方向性は文学であるからこそ可能であって、研究で行うのは難しさもある。
どろどろときたないものをどのように出すかという問題は悩ましく容易に答えが出ないが、この研究会が着目しているような、快・不快のあいだのものにヒントがあるかもしれない。そうしたものや領域を描くさいに、文章ならばこそできることがあるのではないか。
きたないものをいかに書いていくかというときに、生物学などの三人称的な語彙と角度を用いるのは一策かもしれない。それとは別に、いま目の前にある具体的な関係やリアルさを忠実に引き受けようとしたとき、二人称の記述でしか書けないものがある。そうしたことを考える上で、汚穢というテーマにどのようなおもしろさと可能性があるか。
美的判断と倫理的判断は密接に関連しあう。昨今は、確固とした倫理的ポジショニングから逃れようとし、文脈と自分を切り離して、刹那的・断片的に表現を行う動きも増えてきているように思う。そのなかであえてポジショニングをとりつづけ、描く美的世界の範囲を確定させておく必要性もあるとも思える(それによって描きえない、とりこぼす汚穢がある、というのは承知の上で)。
『分解の哲学』では感情や倫理の外側にある分解、たとえば細菌らが自身のシステムや周囲の生態系でおこなう分解の圧倒的な質量にフォーカスがあった。一方で、分解されていく個々の事物をみてみると、たとえば限界集落のような場所とコミュニティを「うまく」終わらせようとする動きがある。終わりが避けがたく見えるときに、その流れを逆転させるのではなく「いい消滅」をめざす方向性である。発展と衰退の波の流れに「ゆだねる」感覚。これは分解されるものへの感情や倫理性をともなうおこないでもあるように思われる。
ナチス・ドイツの清潔権力のスローガンや背後の利害、あるいは生活空間での細菌のはたらきといった具体的な史実・事実に依拠しつつ、汚穢というテーマの根本にある美的な側面や、それを描く方法論の話が自然と掘り下げられていく議論であり、今後の研究会の方向性にとって大きな影響をもたらしうる回となった。
(文責:酒井朋子, 2023.2.25)